見出し画像

フェイク?ファクト?



 議論をして何かを決しようとするとき、事実を根拠としなければならないということに異を唱える人はいないだろう。捏造された事実に基づいた議論は、誤謬しか生まない。正しいデータやエビデンスが、実りある議論の前提であることは言を待たない。

 正しい事実に基づいた議論が死活的に大事であるということには、誰も異論はないはずだ。しかし、「事実」というものは検証することが可能でなければならない。白なのか黒なのか、客観的に判断できるものでなければ、議論の基礎にすることは出来ない。データの改竄が大問題になるのは、議論の前提である正しい事実を破壊する行為に他ならないからである。


 どれだけの歳入があり、どれだけの歳出があったのかということは、改竄や脱漏がない限り、正しい事実というものが存在する。歳入・歳出というものは、検証しようと思えば、誰もが検証することができる事実である。しかし、「事実」という言葉はそれほど単純に検証できるものばかりではない。

 たとえば、「望ましい社会とは何か?」「幸福とは何か?」という議論をしようとする時、事実とはいったい何を指すのだろうか?

 所得が多ければ多いほど幸福であるということが普遍的な価値観ならば、所得の増大を阻害するものを徹底的に省き、所得の増加を促進する政策について議論すればよい。しかし、基本的な最低限度の所得が得られるのであれば、余暇が多ければ多いほど良いという価値観も間違いだとは言えない。

 どこかの国では、しばしば、「フェイク」という言葉の応酬があるようだが、価値観に基づいた判断には、そもそも「事実」というものはないのではないだろうか?

 たとえば、りんごがいちばん好きなAさんと、梨がいちばん好きなBさんがいるとしよう。Aさんにとっては「りんごが1番うまい!」ということは絶対的に正しい事実であるから、「梨が1番うまい!」ということは「フェイク」と言えばフェイクである。Bさんから見たAさんも同様だろう。

 「あいつは、民主主義を破壊している」「いや、こいつこそ民主主義を破壊している」というのは、検証可能な事実ではなく、価値観の相違と言うべきものである。 


 「フェイク・ニュース」と呼ばれるものは、たいていの場合、真っ赤な嘘のニュースではなく、自分の価値観を絶対的な事実と見なした上で相手を排撃するために用いられる言葉である。
 
 民主主義はファクトの事実に基づき、自由闊達な議論を戦わせた上で、最終的には多数決という手段で物事を決していくものだと多くの人は考えていることだろう。しかし、民主主義において、議論の的になるような問題は、ファクトに対する見方の相違に存するよりは、価値観の相違に存することが多い。

「脳死を認めますか?」
「死刑制度は廃止しますか?」
「子ども手当をさらに拡充しますか?」

 このような問いが激論になるとすれば、それは人々の事実の受け取り方の食い違いに依るのではなく、それぞれの人の価値観の相違に依るものだからである。

 検証可能性のある問題に対してならば、ファクト・チェックを行えば、そのことに関して議論すべきことは、さほど多くない。もし、ファクトが誤っていれば、それが本当の「フェイク・ニュース」というものだろう。しかしながら、「フェイク・ニュース」という言葉が飛び交うとき、あたかも自分の価値観を絶対的に正しい事実として考えることに起因しているケースがほとんどである。
 しかしながら、どういう言葉を使うにせよ、民主主義の本質が多数派を形成することにあるならば、フェイク・ニュースが飛び交うことは必然とも言える。
 古くはソクラテスやプラトンの時代から、デマゴーグというものはあった。民主主義は衆愚政治になりやすい。それは、価値観の相違を互いの事実の相違だと思い込むという習性から逃れることが困難だからである。 


#民主主義
#エビデンス
#価値観の相違
#フェイクニュース
#ファクトチェック
#世界史がすき
#公民がすき
#デマゴーグ

この記事が参加している募集

世界史がすき

公民がすき

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします