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💮カントの倫理学について(私的解釈)

今日8日でnoteをはじめてちょうど4ヶ月。だから、「#振り返りnote」にしようかと思ったが、振り返るより前に進みたい。尊敬するタモリさんも言っている。
「反省するな!」と。

では、何について書こうと思ったとき、「カント倫理学」のことが脳裏に浮かんだ。完全に消化したわけではないが、書いてみることにする。

カント的な前提について

例えば、いま、10mの高さから一枚の紙を下に落とすとする。
現在の科学では、ロケット🚀を何億キロ遠くまで正確に飛ばすことができるが、一枚の紙が落ちる場所を正確に予測することはできない。
A地点に落ちるか、それともB地点に落ちるかは、確率的にしか決定できない。

「シュレディンガーの猫」という言葉がある。普通の物体であれば、その場所にあるか、ないかのどちらかだが、「量子力学」の世界では、一つの量子の50%がA地点にいて、残りの50%がB地点にいると考える。A地点を量子が通過したときに毒ガスが猫に噴射されるような機械を作った場合、その猫は生きているか、死んでいるか?50%生きていて、50%死んでいる猫って、どんな状態なのだろう。

おそらくカントだったら、量子力学を受け入れないだろう。量子にしろ、10mから落とした紙にしろ、正確に居場所を特定できないのは、理論が足りないからだと。

カントにとって「理論」とは、絶対的なものである。カントは、自然現象と同じ様に、倫理学にも「完全な法則」があると考えた。それが「実践理性批判」の哲学である。

「実践理性批判」の骨子

あえて哲学用語を使わずに書くとこんな感じ。

①自分の頭で考える。
②自分の行動原理を樹立せよ。
③自分の行動原理を尊重せよ。

例えば、「嘘をつかない」という行動原理を自分の頭で考えた末に樹立したとする。この行動原理(マイルール)は普遍的でなければならない。というのは「法則」だから。だから、基本的には安易に変えてはならない(というか変えられない)。

しかし、相手が傷つかないように、嘘を言ってしまったとすると、私には「嘘をつかない」という行動原理よりも、上位の行動原理(「人を傷つけない」)があることになる。

一般的には、嘘をつくか、つかないかは「時と場合による」。しかし、それは「処世訓」であって、断じて「哲学」ではない。自分の行動原理は「いかなる場合」にも守られるべき最も大切なものだ。だから「時と場合による」という言い訳は許されない。

カントの倫理学は「厳格主義」あるいは「形式主義」と呼ばれる。
しかし、単なる形式だけの倫理っていったいなんだろう?

ここからは私の勝手な解釈だが、自分の頭で考えに考えて作った行動原理に反してしまったとき、「仕方ない」と居直るのではなく、「自責の念」に駆られることを要求しているのではないか?

「嘘をつくこと」は悪いことだと、基本的にはみんな頭では理解しているはずだ。しかし、嘘をついてしまうのは、「人を傷つけたくないから」と言ってみても、結局のところ「自分が嫌われたくない」という「利己心」のなせる技ではないだろうか?

最初は「嘘をつく」ことに、少しでも抵抗感を持っていたはずが、いつしか「嘘をつく」ことを「当たり前のこと」「やむを得ないこと」と考えるようになる。

「嘘をつくこと」に何の抵抗感もなくなったとき、もしかしたら、私は(世俗的な意味では)幸せなのかもしれない。しかし、その「私の幸せ」は道徳律を踏みにじっている以上「幸福に値する」ものではない。

カントはこう言った。
「幸福を求める」のではなく、「幸福に値するように生きよ」と。
「幸福」とは、経済的な豊かさを意味するものではない。
「自分で樹立した行動原理」に忠実に生きていくことである。

「夜空に輝く星と我が内なる道徳律」。自分の外にある法則。
自分の内にある法則。
どちらも絶対的な美しさをもつものである。

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