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アメリカ大使館VISA面接から渡米の思い出 Part2

こちらはアメリカ大使館VISA面接から渡米の思い出 Part1の続きです。

面接当日は夏らしいとても暑い日でした。朝から気温が高く駅からちょっと歩くだけでも汗がダラダラ出る不快な天気でした。

そんななか緊張しながら大使館に向かっていました。ただでさえ、VISA面接なんてしたこともないうえに、事前情報で面接で言ってはいけないことなどをリサーチしていたので、それを振り返っては余計に緊張していました。

ご存知の方も多いと思いますが、アメリカのVISA面接では、学生なら留学終了後、自分の国に帰ってくるということをしっかり示すことが重要です。そのまま滞在する可能性を感じられるとVISAが却下される可能性がありるからです。

VISAを申請するには面接前に、アメリカのシステムに自分の個人情報を入力しておくのですが、そこには自分の家族や知人がアメリカに滞在していないかも確認されます。

僕はアメリカに家族はいませんし、留学終了後にアメリカに滞在し続けたいなど全く思っていませんでしたが、それでも緊張で思いもしないことを言ってしまわないか心配でした。

さて、大使館に到着していろいろ事前のチェックを受け会場に。

面接の列に並んでいると自分の順番が近づいてきます。緊張が少しずつ高まってきます。つくづく小心者の僕。

そして、自分の前の人の順番が来ました。自分の前の人は日本の方でなく他のアジア出身の方でした。どこの国の方かまではわからなかったのですが、「日本から次はアメリカに行くんだー、すごい。」と思っていました。

面接官に一言二言言ったあと、面接官がしばらく沈黙。ちょっとした質問をしたあとに面接官は提出された資料を確認するのです。

そして、面接官が顔を上げた瞬間に言った言葉は

「あなたのVISAは残念ながら却下されました。」

……

「えっ、却下?」

僕は自分のことではなかったのですが動揺が隠せませんでした。いろいろ書類を準備したのに却下? なんで…?

一度、却下されればその場ではどうしようもないとネットの情報には書いてありました。その方ももちろんそのまま帰って行くしかありませんでした。

そんな動揺を抱えたまま僕の番。

僕は緊張で「Hello」の声も小さい。心のなかで「あー、こんな態度は本当によくない。」と思っていましたが、それでも緊張が勝ってしまいました。

書類を受け取ってチラッと書類をながめた面接官は僕に「何を勉強しますか。」と短く聞いてきました。

そのとき気づいたのですが、僕の前の方にも僕にも面接官は日本語で話しかけてきていました。ネットでは基本的に英語で応答できるようにと書いてありましたが。

僕は日本語で聞かれたことにあっけにとられて、一瞬黙ってしまいましたが「neuroscience」と答えました。あまりの緊張に「神経学」という日本語が出てこなかったのです。なんだか作り話のようですが、本当にこんな単純な言葉が出てきませんでした。

面接官はうなずいて、目線を落とし書類をチェックし始めました。

僕はこのあとに、「留学後は日本に帰ってきます。」と言わないといけないと振り返りをしていました。

面接官が目線を上げたので、「よし、答えるぞ」と思ったのですが、面接官は「VISAはOKです!」と言いました。

……

「OK?」

なんと留学後の質問などなにもなくVISAがおりました…

僕は一瞬聞き間違えかと思い、しばらくぼーっとしていましたが、面接官が何も言わないので「あっ、… Ah, thank you...」と言ってその場を後にしました。

大使館を出てからもしばらくは状況が飲み込めず、本当にVISAがおりたのか心配でした。

なんだか数年分の緊張をしたような気がして、そのまま自宅に帰る元気がなく、近くのカフェでしばらくゆっくりすることにしました。気付けば汗をびっしょりかいていましたのですが、気温が高かったからだけではなかったはずです。

それから1週間もしないうちに自宅にVISAが貼り付けられたパスポートが返却されました。飛行機に間に合うかを心配していましたが、結局は予定よりもかなり早く到着したのでほっとしました。

おそらく多くの人が同じ時期に渡米するのを大使館もわかっているので、なるべく早く対応してくださったのだと思います。感謝。

VISAを受け取った瞬間、自分が日本を離れなければいけないという現実が押し寄せてきて、少しメンタルが不安定になっていたように思います。

実はというと、日本を離れることを心の底から望んでいたわけではありませんでした。ただ、慣れ親しんだ日本、なんでもきっちり整っている日本に甘えたまま歳をとっていくことに漠然とした違和感を持っていて、一度日本を離れておくべきかと思って始めた留学計画でした。

とはいうものの、まさか本当に日本を離れる日が来るということは明確には想定できていなくて、心の準備もできていなかったのだとそのとき気づきました。

もともとかなりの小心者で変化を好まない性格なので、一番大切にしていて好きな日本が自分のもとから離れていく感覚を実感できませんでした。

毎日、カレンダーを眺めては本当にアメリカに行くんだろうか…  なんてことを考える時間が多かったです。

しかし、現実にアメリカ行きは決定済み。当日になれば日本を離れるしかありません。

出発の前日、日本には台風が接近していました。外は強風で気分転換に外に行きたかったのですが、それすら叶わず家でぼーっと窓の外を眺めていました。

次の早朝には家を出て空港に向かうので、そのときが最後の日本の昼でした。

せめて家でゆったりと最後の夜を過ごしたかったのですが、いきなり航空会社から台風の影響で次の日の便が予定通りに飛ばないと言われパニックに。ほとんど海外旅行も行ったことのない僕は「便の変更?…」と思い、ちゃんと飛ぶのか問い合わせをしたりして不安な最後の夜を過ごすことになってしまいました。

そのときは費用を抑えるために外資の飛行機を使ったのですが、こういうときに日本の航空会社を使っておけばよかったと思うのですね…

なにはともあれ、予定よりは遅れながらも飛行機が飛ぶことを確認して就寝。

次の日、台風一過とはこのことというくらいの快晴で目が覚めました。ベッドから起き上がって、目の前に大きなスーツケースが横たわっているのが目に入り、本当の日本との別れを噛み締めました。

さて、その日は母親が最寄り駅まで送ってくれることになっていたので親と少しばかり話しながら駅へ。

僕の親は二人とも高卒で、これまた海外にもほぼ行ったことのないような人なので、僕が大学に進学しただけでなく、海外の大学院にまで進学するのがちょっと不思議だったようです。

そんな話をしながら早くも最寄駅。ここからは電車を乗り継いで空港へ…

と思ったのですが、なんだか駅にはすごい人が。

何事かと思ったら、電車が全て止まっているとのこと! 台風一過で空はきれいでも電車は安全をとってまだ止まったままだったのです。

それまでアメリカ行きの準備から前日の台風まで、予想もつかないことの繰り返しでしたが、最後の最後までアメリカ留学が一筋縄ではいかなかったのは、僕の人生を象徴していたのでしょうか…

しばらくどうしたものかと考えていたのですが、母が「このまま空港まで送って行こうか?」と言い出しました。

そんな遠くまで来てもらうのも気が引けましたが、思い出話が始まって内心、余計に日本を離れたくなくなっていた僕はためらってしまいましたが、それでも、もう他に選択肢はなくその言葉に甘えることにしました。

車は再び駅を出発し、空港へ。

あとで聞いたら、親はさすがにその日は僕のことが心配で仕事も手につかないだろうと休みにしていたとのこと。そのとき初めてそれを聞きました。不安なのが僕だけではないのは仕方ありません。なんと言ったって家族みんながドメスティックな家庭なので、日本から離れるなど一大事なのです。

電車を利用せずに車で空港に向かったことでいきなり最後に母と言葉を交わす時間ができました。

僕の母は本当に単純な英文ですら何が書いているかわからないような英語力なので、僕が勉強していたTOEFLなどはもちろんのこと、学校とのやりとりやVISA申請に関わる書類など、僕が何をしているかは全く把握していませんでした。

僕もいい歳をした大人だったので、まさか、「お母さん、一緒に参考書を買いに行こう! VISAの手続きも手伝って!」など言うわけもありません。

自分で勝手に決めた留学なので、全部一人でを準備をしました。

そんな僕を見ていた母が最後にこんなことをポツンと言いました。

「私は大学にも行っていないから大学進学のときも何もアドバイスしてあげられることはなかったし、ましてや、海外の大学のことなんて何もわからないからどうすることもできなかったけど、そんな親に頼りもせずにいつも何でも一人でよく頑張ってきたね。」

思い返せば、確かに僕の両親は僕の進学を金銭以外でサポートしたことは一切ありませんでした。初めは質問してみたこともありましたが、「大学に行ってないからわかるわけないでしょう。自分の力で解決しなさい。」と言われるのみ。

金銭援助があるだけマシというものですが、僕の住んでいたところは極めて田舎で近所にすら大学進学した人がほとんどいないようなところで、僕は途方に暮れてはフラストレーションを感じていました。

しかし、親も少なからずそんな対応しかできないことを申し訳なく思っていたようです。

ただでさえ、日本を離れることにためらいを感じていたのに、最後にこのような言葉を聞いてしまっては余計に日本での記憶が蘇って、心が揺れました。

そこで、「やっぱり留学なんてやめようかな」という言葉が喉元まで出てきたように思いましたが、残念ながらその時点ですでに僕の目には巨大な空港がはっきり見えていました。

だからこそ、母は最後にそんな言葉で僕を労ったのでしょうが…

もう引き返すことはできませんでした。

空港に到着しましたが、空港の駐車場は夏の終わりのためひどい混雑状態で車を停めることができず、僕は空港入り口で一人で荷物を下ろし、その場で慌ただしく母と最後の別れを迎えました。

母の引きつったような笑顔より、きっと僕の顔の方がひどかっただろうと思います。僕の中では完全に日本を離れることの不安が勝っていました。

それでも、お別れの時間。

僕は「まあ、ネットがあればいつでも話はできるから。わざわざここまでありがとう。」と言って親に背を向けました。僕の精一杯の言葉でした。

家族旅行から帰ってきた人たちで騒がしい空港の中、僕は一人荷物を預け、飛行機に乗りました。

飛行機がのそのそと動き出しましたが、もともと飛行機が大好きな僕でも全く心躍らないのが情けなく思えていました。

飛行機は轟音をたて加速し、機首が上に向いたのを感じ、飛行機は旋回を始めました。

そのとき、ふと最後に日本の景色を目に焼き付けておこうと思い窓の外を見たら、まばゆいばかりの真っ青な海が目に飛び込んできました。

「そうか、昨日は台風だったんだ。最後の最後までハプニング続きだったけど、全部乗り越えたんだ…」

真っ青な海と空港のグレーの対比を見ながら、その比率が次第に青に傾いていくのを見ながら、僕はほんのちょっとだけ自分の中に達成感を感じました。

もともと自分を褒めるなんてことを好まない僕がそんな感情を抱くなんてどうかしていると少し笑ってしまいました。

でも、僕は日本を離れるとき、確かに自分はよく頑張った! と思っていました。

アメリカに到着してからも慣れない生活で大変なことはわかっていましたが、それでも僕は自分の心にひと段落つけて、日本を離れることができたのだと思います。





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