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正解がない人間関係に揉まれて今日も息をする。

「あなたにとって、友だちとは何ですか」

そんなタイトルで、中学生に向けた道徳の授業の指導案を作成した。
人間関係の難しさに直面することが多い中学生という身分の3年間。
そんな時期を生きている生徒たちに、直接的過ぎて危険かもしれないとは思いつつ、とても大切で今後の人の関わりにも影響を与えるだろうトピックだと思い取り上げた。授業を進行する前段階としては、私がしっかりと自分なりの見解をもっておく必要がある。
しかし、自分で作成しながらも、その答えが分からなくなっていた。

友だち、ってなんだろう。
どこから、どこまでが友だちなんだろう。

これって実は歳を重ねれば重ねるほど分からなくなる問なのかもしれない、と思った。


そういえば、もうどのくらい「私の友だちになってください」という言葉を口にしていないだろうか。
私の頭の中に、ひとつだけその言葉を伝えた鮮明な記憶がある。
小学3年生になったばかりの頃、ツインテールの女の子にまるで告白をするように伝えた記憶。そして、その後、7年の時間を彼女と共にした。今でも度々彼女のことが頭に浮かび、少し胸が苦しくなる感覚を覚える。然るべき人生の分岐ではあったのだろうけれど、思い出すのは彼女の切なくて傷ついた顔なのだ。楽しかった出来事の方が多いはずでもちろん覚えているけれど、「私が傷つけてしまった」「結局私は彼女のために何もできなかった」、その記憶が強いからなのだろうか。



そんなことを考えているとき、思い浮かんだ一人の「友だち」がいる。

大学生になって、しばらくして出会った子。性別は私とは違う。
その子には、何故かできる話がたくさんある。
体には不必要な毒を吐くことができる。
本音でぶち当たりにいくことができる。
本気で私の想いを語ることができる。
自分を見失って、真っ黒になった私に対しても相変わらずの調子でいてくれる。

そういう相手は、見つけようとして見つけられるものでもない。その子は私と会話をしていて何を思っているのか全く分からないけれど、話すだけで勝手に救われてきたから「ありがとう」と思う。

ここで、多くの人の頭に思い浮かぶのが
「男女の友情は成立するのか」
ということだと思う。
この論争はいつの時代も絶えないものだと思うし、そこに対する正解は私も分からない。

だけど、関係が変化することは無いんだろう。
そして、きっと、その子は恋人ができたら私とは連絡をとらなくなるだろうし、きっと、私は恋人ができたらその子とは連絡をとらなくなるだろう。


私は人間関係というのはもともと、とても脆く流動的なものだと考えている。これまでに連絡が途絶えてしまった相手に対しても、どこかで笑って幸せに生きることができていますように、とただ願う。


だから、男女関係による変化も決して咎めたりはしない。

私が思うのは、
いつか、お互いが伴走者を見つける日まで、
どうか、友だちでいてくれたらな。

それだけ。

それだけ、

だけど、

とても傲慢なお願い、なんだよね。



※※※


やっぱり人間ってよく分からないし、
ひとつの場所に留まるのが苦手で、たくさんの人の前だと振る舞い方が分からなくなってしまい、端っこでバレないように存在している私だから、きっと無意識のうちに誰かを不快にしてきたのだろうな。
それ故に「これ以上私の存在が誰かを不快にしてしまうくらいなら、私が落ち着くことができないのなら、その場から消えよう」という思考になる。

人間関係を0か100かでしか考えることができなくて、考えすぎた人間関係は私からフェードアウトしてしまうから、私はまだまだ未熟だな。



反りが合わない人がいて、
思考を理解できない人がいて、
その行動は有り得ないよって思ってしまう人がいて、
当然の世の中だから、
やっぱり人間関係は流動的で
離れることがあって然るべきだと思う。

もちろん、初めから相手を決めつけるのは違うけれど、関わった上での「決断」だったら、「それ」は定めなのかなと思う。


誰が、悪い。
誰が、良い。
誰が、悪くない。
誰が、良くない。

そういうことがない世界だから、
見方によって色々変わってしまう世界だから、
結局「私目線」でしか生きられない世界だから、
しんどいし、意味が分からない。
だけど、
きっと一生懸けても分かることができないのだろうという興味深さがある。



そんな世界で、今日も生きていく。




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