目隠しをしてミールスを手で食べる「クラヤミールス」をやってみて考えたこと
東京マサラ部員すーさん主催の「手でミールスを食べるBAR」というイベントに参加した。インド料理は手食することが一般的であるが、普段手で食べることに慣れていない人が実践することで新たな体験をしてもらおうというのが狙いだ。
自分自身は10年くらい手食をしているのでもはや手で食べること自体には何も思わない。そこで、視覚を奪って手の感覚に集中したらより楽しめるのではないかと思い、前からやってみたかった「クラヤミールス(暗闇+ミールス)」を敢行した。お店の意図に沿っていなかったら申し訳ないので、もちろん了承の元である。
今回は手で食べることに最適化されたワンプレートでの提供ということなので小分けのカトリなどがなく、手で食べてさらに楽しめるように食感のバリエーションなどにこだわっているというのも実行するのに適していた。
ということでアイマスク(普通のマスクだけど)をし、自ら視力を奪った。その状態で料理の見た目がわからないようにして料理を持ってきてもらった。
五条先生みたいになった。強そう。
実際に目隠しをして食べてみる
目の前の皿に手を伸ばしてみる。最初に漏れた感想は「なんだこれは」というものだった。ミールス自体は何度も食べてきたはずなのに、何が何の料理なのかわからなかった。視覚を使えば全体を一瞬で把握することができるが、触覚では触れている部分しか認識することができないのだ。
まず、彩りがわからない。料理が何種類あって、どこに何があるのか全体像が掴めない。しかし逆に、目を閉じて指先から伝わってくる情報量は目を開けて食べている時よりも豊かなように思えた。温度感覚、硬さ、ヌメヌメ感、油の量。余計な情報はシャットアウトされて、世界がカレーと私だけになったような感覚。
手の平をかざすようにしながら温度を感じ、お皿全体の形を確かめた。四角いプレートだったのに、なぜかこのときは下の角がすぼんだドクロ型のプレートだと思った。
恐る恐る食事を指先で摘むように食べていくのだが、左側にたぷんと溜まっているグレイビーに手が触れると熱くて声を上げてしまった。感触と香りからしてマトンのカレーなのだが、熱くて触ることができなかった。
この部分は後回しにすることにし、とりあえず米を摘んで食べる。米は湯取りバスマティライスということはわかった。ブランドまではわからないがおいしい。
手前の方を触ってみるとなにやらひやっと冷たいものがある。おそらくヨーグルトだろうなと推測して手を舐めてみるとやはりヨーグルトの味だ。さすがにこれはわかった。そこから左に移動すると細く切られた薄いものが乗せられているのがわかる。少しつまんで食べてみるとパリパリした食感がして、これは一発でキャベツのポリヤルだとわかった。
ずっと食べ物の表面だけ摘んで食べてしまっていて、「食べる量がすくないよ!」と周囲からツッコミが入る。ここから大胆に手の動きを加速して大きめの一口を食べようとしたが、おそらく深さという概念がこの世にあること自体を忘れていて、米の表面しか掴めなかった。立体的な把握ができていないようだった。
右奥の方にはプルプルというかブヨブヨねっとりした手触りのものだあり、ダール(ひきわり豆の煮込み)だと推測して食べたらやはりダールの味がした。そこから手前にスライドしたら繊維質の細かいものと柔らかい塊をつまんだ。口に運んでみるとなすと魚っぽい香りがする。
全体のアイテムの配置は確認し終わった(実はもう一つの料理の存在に気づかなかったのだが)。ミールスの醍醐味は混ぜながら味を作っていくことだ。料理同士を混ぜながら食べていこうとしたのだが、手の動きと感じられる味の連携が取れず、口の中の味の予測がつかないしうまく食べられない。
なぜだろうかと考えてみると、普段ミールスを混ぜる時は「白飯をキャンバスに見立て、それぞれのおかずを絵の具だと思って」、視覚的に食べているからだと思った。目で見て、これとこれを混ぜると決めてから混ぜて、実際に食べてから酸味をもう少し足す、など調整しながら食べている。触覚だけでは混ざり具合がよくわからず、細かな調整が難しいのだ。
今までの触覚から得られた情報を総合し、最終的に頭の中ではこんな感じのモノクロのミールスを思い描いていた。美味しいということはわかるのだが、何を食べているのかいまいちわからずぼんやりした味に感じられていた。
我々は本当にミールスを見ているのだろうか
ここでアイマスクを外す。混ざる前の状態を見ていないのでアイマスクを外した途端、自分の食べかけの皿と対峙することになる。食事の最中にタイムリープしてきたような面白さもあった。
混ざる前の状態の写真を見せてもらうと、作り手の意図としては見た目と彩りにこだわって緑、赤、黄色、紫というカラフルな配色になっているのに、頭の中のミールスはモノクロだった。キャベツが紫キャベツであることもわからなかった。
全体像を把握してなかったので満遍なく食べることができず、なぜか同じ箇所ばかりが減っていたし、最後までオクラの炒め物があることに気づかなかった。
そういえば目隠しを外してから、格段に食べるスピードが上がった。咀嚼をしながら次に新たに口に放り込むための指の動きを準備することができる。目隠しをしていたときは指が止まりがちで一口も小さかった。
意外だったのは、視覚情報が入ってからの方が味がしっかり感じられたこと。視覚を奪われるとより味覚が敏感になるかと思っていたのだが、実際には目が見える状態の方がより味がわかった。
おそらく私たちは、過去に食べたことのある中から似たものの味を探して、情報を自分で付加しながら目の前のものを食べている。また、安心して食べられるということも味わいを増す要因なのだろうと思う。
私たちは何かを食べる時にまず視覚情報から入る。食べ物を見て「あの時食べたアレに似ている」とか「こういう味がするに違いない」という味の予想をつけていて、実際に感じられる味の情報に補正をかけているのかもしれない。
まとめ:情報はうまい
今回の経験から、自分は普段からかなり視覚情報に頼ってものを食べていることがわかった。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』によれば、目が見えない人の方がむしろ視点に縛られない真実の姿を把握できているという。目が見えているとどうしても視点が固定されてしまい、ものには表と裏、正面と裏面ができてしまう。逆に目が見えない場合は触覚や言葉によって把握するしかないので表も裏もない。むしろ客観的にものの形と関係を把握することができる、ということらしい。
確かに、別に目で見て把握した姿だけが正しいというわけではない。目隠しをしながら手探りで把握したミールスは、視覚によって毒されていないある意味真実の姿とも言える。今回の体験で知っているはずのものに対する「あたりまえ」が溶けていく感覚を味わった。
また、「視覚」からの情報も結局「味覚」のうちに入るのかもしれないと思った。感覚というものを5つに分けているのはアリストテレス以来の伝統ではあるが、それほど明確に分けられるものではない。実際に食事をする時には味だけでなく、「目」でも食べているし「手」でも食べている。「調理音」も食欲を増強する。
純粋な味というものが例え存在するとして、それは言語を獲得する前の赤ちゃんが感じているような未分化の感覚の世界に近いのではないだろうか。「分かる」というのは「言葉で分ける」ことであり、カレーの味が分かるのはそもそもカレーという情報があるからなのだ。マウンティングのための蘊蓄はしょうもないが、知識や情報は上手く使うことで食事の楽しみを増やすと思う。
芹沢さんはこういうことを言うけど、情報ってうめえよな、と思う。特にカレーなんてものは食べる情報商材と言っても良いくらいの情報の宝庫だ。豊富な歴史もあるし、自らが食材やスパイスに詳しくなることでさらにおいしく楽しめるようになっていく。カレーに限らないが、自分の知識の網の目が細かく慣ればなるほど、得られる情報量が増えて、料理はさらに美味しく感じられると言うのは実体験からも確かだ。
目隠しをして食事をするという体験はなかなか一人ではできないかもしれないが、一度ぜひ試してほしい。よく知っているはずのものがぐにゃりと溶け出すような、世界の真実に触れたような、すこしふしぎな感覚に陥るはずだ。
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