【試し読み】井出和希・菊池 遼「距離と異なる像」(特集:ELSIの流れのほとりにて)

『フィルカル』では、ELSI(Ethical, Legal, and Social Issues)つまり新たな技術が我々の社会に実装される際に生じる様々な問題について、すでに何度か取り上げてきました。

前号に引き続き、「ELSIの流れのほとりにて」第二回をお届けします。
2020年4月、国内初の ELSIに関する学際的な研究・実践組織として発足した大阪大学社会技術共創研究センター(通称:ELSI センター)に所属する研究者の方々を中心に、ELSIの実践的側面にかんする原稿をお寄せいただきました。

ここでは、芸術作品の分析を通じてELSIという幅広い問題系に切り込む、
井出和希・菊池 遼(2023)「距離と異なる像」『フィルカル』8(2), 8–18.
の一部を抜粋して紹介します。



はじめに

倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues, ELSI)は、その射程の広範さ故にあらゆるものごとや立場に紐づく課題を包含するものとも考えられる。
また、その対象はゲノム関連研究にはじまったが、ナノテクノロジーや情報通信技術に広がり、現在の実態としては特定の領域に限定されたものではないといえよう。
本稿では、まずこの言葉のはじまりから近年の動向を簡単に振り返る。
そして、個別具体的な説明や主張は放棄して、ある芸術作品における鑑賞距離の問題とその背景にある思想から科学技術に近接する複雑なELSIのあり様の一端をそのままに捉え、受け止めることを試みる。

〔…中略…〕

芸術作品を通した試論

このようにELSIに注目が集まる一方で、そのあり様は捉え難い。
捉え難さについては学術的な境界条件を設定することで説明可能性を高めるという方向もあろうが、ここでは芸術作品を通して捉え難いままに様相を観察し、その一端に触れてみよう。

芸術作品としては、菊池遼の絵画シリーズ〈void〉(2015年~)*1に注目する(《void #127》, 《void #135》を例として示した*2;図1, 2)。最初に菊池の思想的な背景や関心について触れたのちに、作品そのものについて論じながらELSIとの交わりについて分析を加える。

このシリーズが制作される起点には、菊池が日常を生きる中で「実体」に対して抱いていた違和感が存在する。
これは、事物の輪郭というものは客観的に存在するのであろうかという疑問
から生じた違和感である。
すなわち、事物の輪郭というのは私たちがそこにその通りに引くことで生じるという意味で主観的なものであるとも考えられるのである[6]。

菊池はこの発想を「事物の現象的なあり方」と表現し、シリーズのコンセプトに位置付けている。
菊池はこれを表現するに際して、仏教、とりわけ大乗仏教における「空」(śūnya, 名詞形ではśūnyatāであり、後述のノーマン・ブライソンの論述では後者が用いられている)の思想を参照している[7]*3。
「śūnya」は「膨れあがった」状態を指し、その中が空ろ(うつろ)であることから空(から)であることや虚ろであることを意味するようになった言葉である[8]*4。
大乗仏教では、事物は他のさまざまな事物と相互に依存し合うことで成り立っているとして、そこから自性(本質)を欠くと考えるが、そうした事物の自性(本質)を欠いた在り方を「空」という語は指し示すのである。


菊池 遼, void#135

また、ノーマン・ブライソンは美術の文脈で「空」を援用した議論を展開しており、これも菊池はシリーズの背景に位置付けている。
ブライソンの「拡張された場における<眼差し>」では、西谷啓治の論を引用しつつ、視野における「空」を次のように述べている[9, 10]。
対象Xとして現れるものは、Xと周囲の場全体との差異にすぎない。これと同様に、「周囲の場」として現れるものは、それと対象Xとの差異にすぎない。

このように事物が相互依存的にあることをブライソンは「空の場」(field of blankness or śūnyatā*5)と表現した。
ブライソンの原文において「空」にあたる語としてはblanknessおよびśūnyatāが用いられているが、菊池はシリーズの名称としてvoidという語を使用している。

blanknessおよびvoidnessはいずれも「空」の訳語として用いられるが、菊池はシリーズの名称設定において、ブライソンの論述に基づくそれらの語の差異の検討からの選択は行っていない。
では、voidという語はどのような理由から選択されたのか。
〔…〕



続きは最新号でお読みいただけます。

参考文献

  1. 大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター). ELSIとは. URL: https://elsi.osaka-u.ac.jp/what_elsi (最終閲覧日 2023年6月10日)

  2. Institute of Medicine (US). Society’s Choices: Social and Ethical Decision Making in Biomedicine. Washington, DC: The National Academies Press. 1995. doi: https://doi.org/10.17226/4771

  3. 岡村浩一郎ら. 第1 部 科学技術イノベーション政策の国際動向(ポスト2020の科学技術イノベーション政策 成果報告書). 国立国会図書館 調査及び立法考査局 調査資料2019-6, 2020. 

  4. 内閣府. 第5期科学技術・イノベーション基本計画. URL: https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/5honbun.pdf (最終閲覧日 2023年6月10日)

  5. 内閣府. 第6期科学技術・イノベーション基本計画. URL: https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/6honbun.pdf (最終閲覧日 2023年6月10日)

  6. 菊池遼. <void>シリーズについて―「空」の思想を参照して―. 造形研究論集 2020年度. 2020; 41–69.

  7. 中村 元ら(編). 岩波 仏教辞典 第二版. 岩波書店, 2002.

  8. 廣松 渉ら(編). 岩波 哲学・思想事典. 岩波書店, 1998.

  9. ノーマン・ブライソン(著).槫沼範久(訳). 拡張された場における<眼差し>.ハル・フォスター(編).視覚論.平凡社,2000: 127–157.

  10. Norman Bryson. The Gaze in the expanded field. Vision and Visuality. Hal Foster (Ed). NY: The New Press, 1988: 87–113.

  11. 菊池遼. 鑑賞距離から考察する絵画の造形性 ―〈void〉シリーズの分析を中心に―. 東京造形大学 学位論文. URL: http://id.nii.ac.jp/1592/00000106/

  12. 菊池遼. <void>シリーズと水墨画の造形的特徴の比較考察. 造形研究論集 2021年度. 2021; 51–77.

  13. 内閣府. 「総合知」ポータルサイト. URL: https://www8.cao.go.jp/cstp/sogochi/index.html(最終閲覧日 2023年6月10日)

  1. シリーズの一部はウェブページにおいて公開している。URL: https://www.kikuchiryo.com/void

  2. 例は本稿における参照項として便宜的に抽出したものであり、シリーズ内での表現の変遷については、参考文献11(第1部第3章pp. 25–34)を参照されたい。

  3. p.238

  4. p.373

  5. p.88



井出和希 Kazuki Ide
1989年生まれ。博士(薬科学)、薬剤師。大阪大学 感染症総合教育研究拠点 科学情報・公共政策部門/ ELSIセンター 実践研究部門 特任准教授、NISTEP 客員研究官。ものごとに対して人が抱く価値(観)、研究(者)とは如何なるものかに関心がある。Sony World Photography Awards 2022(Professional Competition(Environment), Shortlist)など受賞。
菊池 遼 Ryo Kikuchi
1991年生まれ。東京造形大学大学院博士後期課程修了。博士(造形)。画家。主な作品シリーズに、鑑賞する距離で作品の見え方が変わる視覚効果を用いて「もの」の儚さやたどり着けなさ、現象性の表現を試みる〈void〉シリーズ、主な論文に、「鑑賞距離から考察する絵画の造形性 ―〈void〉シリーズの分析を中心に―」(東京造形大学 学位論文, 2023年)がある。


ブログ掲載にあたり、必要最低限の修正を加えました。
フィルカル編集部


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