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「安楽死」とは。難病患者からの視点。

 454回目です。φです。

 気圧のせいかなぁ、不調です。なぜか毎朝5時に起きるし。

 5時起きじゃ睡眠時間が確保できないのです。早めに寝ることを心掛けているのだけど、そうすると朝早く起きるので結局睡眠時間は変わりません(笑)

 朝日を見るのは好きです。朝焼けの時間は私にとって一番好きな時間。夕焼けよりもおそらく短い、太陽が空に出てくる瞬間。

 今日はニュースを見て、考えたことについて書こうかな。重いニュースだと思います。安楽死・尊厳死のこと。


 毎回安楽死・尊厳死、と書くのはちょっと長いし、要するに同じことなので表記は「安楽死」だけにします。

 どう思いますか?安楽死のこと。意見は分かれると思います。賛成と反対。賛成の人も不安がある人もいるだろうし、ない人もいるだろうと思う。

 安楽死で不安要素になっているのは、「望まない安楽死」が起こってしまうかもしれない、ということだと私は思います。

 望まない安楽死。安楽死を進められたり、迫られたりすること。だと思う。強要される安楽死も、可能性としてはゼロじゃない。

 様々な事件が起こるたびに、たびたび話題になります。安楽死に関しては。

 ちょっと調べてみました。安楽死ってそもそもなんだろう?

 安楽死は2種類あるそうです。「積極的安楽死」と「消極的安楽死」。

 「積極的安楽死」は自発的に安楽死を選択すること。薬物を自分で致死量を服用するとかで。もしくは、本人が署名して他人(主に医師)に投薬を頼む。

 日本では積極的安楽死を認める法律はないので、自分で致死量の薬物を使用し死亡した場合は自死になります。

 他人が薬物投与によって安楽死をした場合は、6つの条件を満たすものならばいいのだそう。患者の意思や状況、倫理的な問題…判断は難しそうですが。

 「消極的安楽死」は治療を続けない、もしくは行わないこと。もしくは、本人に意識がなく、意思を決定できない状況で、安楽死を望む本人の署名があった場合はそれに従う、本人に最も近い親族が決定する、のどちらか。

 消極的安楽死は割と身近ですね。癌治療などを継続しない、もしくは治療しないという決定をすれば、それは消極的安楽死ということです。

 ちなみに、消極的安楽死も殺人罪になることはあります。本人に意識がなく、親族が消極的安楽死を選択しなかった場合に、医師が治療をやめてる・治療を再開しないのなら、その医師は殺人罪。

 さてこの安楽死、宗教がかなり絡んでくるそうです。まぁ死と宗教は密接だと私は思っているので、そうなるかなぁと思う。死生観とかね。

 宗教で言うと、プロテスタントが多い国は安楽死を認めている傾向があるそうです。同じキリスト教でも、カトリックは認めていない。

 イスラム教でも安楽死は殺人罪になるとのこと。

 安楽死を認めている国は、スイス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・カナダ・大韓民国。

 州によっては認めているのはアメリカ・オーストラリア。

 詳しく知りたい方はぜひご覧ください。

 さて、ここまでが基本的な情報でした。私は積極的安楽死と消極的安楽死という言葉があることすら知りませんでした。治療を選択しないことでも「安楽死」になるのだとは驚き。

 ここからは私の考え。もしかしたら、治療とかでの苦しみを実際に感じることができない私の視点は異なるかもしれない。予想でしかないけどね。

 私は安楽死、積極的安楽死は賛成です。もしかしたら悪用されるかもしれない、とは思っているけれど。

 私自身、私の体の部分がどこか悪くなって、自分で生活できなくなったら安楽死を選ぶと思います。歩けなくなったとしても、誰かにすべてを補助してもらわなくても問題なく生活できるのであれば、安楽死は選ばない。全身が動かなくなって、意識だけがある状態になったのなら、おそらく安楽死を選びます。

 私の人生を、私が歩めていないように思えるからです。自分で生きていけなくなったら、私らしく終わりたい。今でも決して「ひとりで生きている」とは言えないけれど。

 私には100歳を超えて長生きした親族がひとりいました。認知症になって、自分の子どもたちが亡くなったことも知らされませんでした。誰が彼女に会いに行っても、「誰?」から始まっていたそうですし、最後の5年くらいは意識もあるのかないのか、という状態で。ただ生きている、生かされている。そんな状態だったそうです。

 それから、私は大学病院に通院しています。そのとき、多くの入院患者に出会います。そこで目にするのは、車椅子やストレッチャーに乗っているご高齢の方。目も開いていなくて、チューブをつけていることがほとんど。呼びかけにも応じていない様子を多々目にします。

 彼らはもしかしたら、自分で選んで治療しているのかもしれない。私には判断ができません。けれど、それは生きていると言えるのでしょうか。幸せでしょうか。

 高齢者だけでなく、子どもから若者でも、自分で歩いて、自分のしたいことをして、自分として生きる。それができていないまま生きるのは、どうなのだろう。誰のための生なのだろう。

 私は痛みが分からないようです。ですが、私は慢性の痛みがあることは確かです。関節の形成不全があるし、歩くたびに骨がすれる音がします。その音から判断すると、結構に痛いようです。

 もし痛みが常にあって、それを耐え続けなければいけない人生ってどうなのだろう。幸せなのだろうか。常に悪化するかもしれないという恐怖、手術しないといけないかもしれないという恐怖、そういった恐怖と隣り合わせに生きるのは幸せなのだろうか。

 苦しんで生きるのなら、楽になる方法だってあっていいんじゃないかなぁ、と私は思います。私は身体的な面で苦しむことはありません。けれど、想像しただけでも、苦しんで生きるのはつらいことだと思います。痛みで泣く人を私は見たことがあります。生涯ずっと泣いて生きていかないといけないって、つらいと思う。

 しかしながら、どんなに誰かを助ける方法でも悪用されます。悪用しようと思えば、なんでも悪用は可能だからです。もし安楽死が悪用されたのなら、「生きたい」と願う人も「安楽死を願って幸せに死んだ」とされることだってあり得ないことではないのです。

 なんでも要は使い方次第、なものです。例えばハッカーが存在する、同時にホワイトハッカーも存在する。彼らの存在は紙一重です。

 みんながみんな、正しい使い方をすればいいのにね。

 私は難病やら障がいやらを持って生きる人の立場から、安楽死に賛成です。私は一生治りません。不便なことはあるけど、痛みはないけれど。それでも、なにかを一生抱えて生きていく、それは嬉しくはないことです。数年後に治りますよ、とか、段々と普通の人と同じレベルになれますよ、とか。そういった希望があれば、違うかもしれないけれど。

 私は安楽死について考える機会は多い方だと思います。私は馬が好きで、競馬もそこそこ知っています。ワードとして、「予後不良」は目にする機会があります。予後不良は安楽死ということです。

 馬は脚が命です。3本脚で生きていけません。他の病気を引き起こしてしまう可能性だって非常に高くなります。脚がだめになってしまってから、馬は馬らしく生きていけない、ということだと私は思っています。

 そう考えると、安楽死程彼らを助けるものはないとすら感じます。苦しまず、一瞬の痛みで楽になれる。

 馬と安楽死を考えるようになったきっかけの馬が私の心の中にはいます。ちょっとご紹介させてください。テンポイント。

 さて、今回は私が思う安楽死について書きました。人によって意見は分かれますし、これに正解不正解はないと思う。誰かにとっては正解で、誰かにとっては不正解。その正解不正解という基準すら、不正解なのかもしれない。

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