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理想の家族、遠くからの傍観者。

 446回目です。φです。

 どうした私、生命活動サボタージュですか。そう自分に問いたくなるほど、全くもって活動する気のない体と生活しました本日。

 たまにあるんですよね、謎のサボタージュ。気力からだろうなぁ、多分。

 そんな中一応はSPIやったり、英語やったり。SPIで再び「これを数字として解くことができたとしても現実問題では明確な数値を出すことなど…」と拒絶反応が出て哲学していたのですが、変に横道にそれて考えまくるから脳が疲労するのでは…と思わなくもない。

 計算としてはできるのだけど、「パソコンを購入した。最初の頭金として〇分の1を支払い、後は分割払いで…」系の文章を読むと、「お金貯めてから一括で買って!」と言いたくなる。分割やめて、計算面倒だから。いやまぁそういう文章自体に意味はなくて、計算として文章を作った結果なのだけれど。

 さて、難癖付け続けて解いたSPIですが、途中で完全に脱線して、考えることになりました。家族と言う概念は難しすぎる。これもまた先日と同様、解決もしないだろうし解決する気もないだろうし、正解はないだろう。蝉の声に耳を傾けて、色々と思いだして考えたこと。


 理想の家族ってなんだろう。理想の家族に私が入り込めば、その「理想の家族」の一員になれるのだろうか。理想の家族の構成員として、私はやっていけるのだろうか。

 私は素晴らしい、色々と困難に直面しながらも全員で乗り切っていこうとする家族に出会いました。彼らから家族のひとりと言われて、本当に嬉しかった。フィンランドでのことです。

 彼らには本当に色々教えてもらいました。気取らずに話して、一緒に食事をして、ちょっと遅く外出してお散歩して、なんてことない会話をしながらショッピングセンターを回って。モニュメントとかを教えてもらったり、有名な建物に一緒に入ってみたり。

 思ったことを議論したり。一緒にそういったいわゆる「当たり前」のことをしたり、彼らの「当たり前」の様子を見たり。これが家族なんだろうなぁと思った。

 あ、ここまで書いてすごくフィンランド帰りたくなった。会いたいなぁ。とてもいかがわしいGoToトラベルに便乗して行こうか(笑)

 私が素晴らしい、と思う彼らでも問題は抱えていました。息子の卒業後の進路の悩み、娘の摂食障害への悩み。また彼女は「大人すぎるの!もう少し同世代の子と遊んでも良いと思う!」と母親は心配していました。私も色々な場で言われたなぁ。

 母親とは私自身の経験も交えて、摂食障害について話した。私も彼女と同じくらいの年齢で摂食障害になって、入院したんだ、から始まって。最終日に話したなぁ。車の中で。

 さて、これ以上思い出を振り返っていると私は本気で楽天トラベルを予約しかねない。ここまでにしよう。

 彼らと一緒に過ごした。私は家族とは何かを知った。けれど、どこかで私は傍観者なのだ。「家族っていいなぁ」、そう思いつつも私は「家族」を一歩二歩、下がって見ているのだと思う。

 noteにも何度か書いているし、ご存じの方もいるだろう。あえて書くけれど、私は自分の家族が好きではない。「好きではない」以上のものだけど、あまりパンチの強すぎる言葉を連ねるのもいかがなものか、と思うので、「好きではない」で表現する。

 時々話を出すし、私自身一番嫌いではないのがsiblingだ。私と同じく家族に関して苦労したと成人してから言うようになった。予想はしていたけれども。それからというもの、私はsiblingには幸せになってほしいと願っている。

 一見良好そうな関係だけど、私自身は正直「恨まれているだろう」とは思う。一人っ子ではない子どもの関係は複雑だ。私はそう思う。特に歳が近かったりすると。

 年長の子どもは、年下の子どもの方が親から手をかけられていると感じる。それはよくある話。親自身はその気がなくても、どんなに小さい子どもであっても嫉妬心や執着心はある。優越感を得たいとも思うだろうし、独占欲だってある。子どもだって心は十分に育っているのだから。

 私たちの関係でもそれはあるだろう。…あるだろう、と私は書いたけれど、私にはあまりその記憶がない。「興味がなかった」から。

 私はsiblingが受験のとき、色々とありました。テストや合宿、クラスメイトとのいざこざで精神的に参っていたsiblingから怒鳴られたことはあったし、イライラをぶつけられたことだってあった。親も未経験のことで常にイラついていた。私はそれでも自分のペースを守ろうとした。私には関係がなかったし、「害さえ与えなければよい」、と思っていたから。

 しかしながら、私自身「隠れるように過ごす」「楽しまない」「静かにする」ことを一貫したことは覚えている。けれど、それ以上の記憶がほぼない。きっと色々あり過ぎて、私の記憶の奥底にいるのだろうと思う。記憶したくないことは記憶しなくていい。面倒だ。興味もないし。私にはそう思っていた時期があった。

 記憶が奥底過ぎて、多分一生思い出さないだろう。もしかしたら何かしらのきっかけで思い出すかもしれないけれど、また奥底に沈めて、次は埋めるかもしれない。それでもいいかな、そこで培った経験や考えは今でも私に受け継がれているだろうし。

 2年間分くらいかなぁ。何してたんだろう。小学生だったなぁ、何かリビングのテーブルで落として「落ちた」って言ったら縁起が悪いと怒鳴られたなぁ。それくらいの記憶しかないや。

 そんなこんなな子どもの頃のsiblingとの経験だけど、そこまで私はsiblingに恨みつらみはない。まぁ子ども同士でも何かしらあるよね、喧嘩しないだけよかったんじゃないかな、ってくらい。ちょっとうるさかったなぁ、とは思うけどね(笑)

 私は親の前では猫を被る。そりゃあ何重にも猫を重ねて。私の思う理想の家族、本音を言ってお互いの信頼の上で成り立つ会話や関係とは程遠いけれど、「本音を言うほどに信頼している」という感じの猫を被らなければ、毎日が戦場だろう。主に私のメンタル面での。

 そんな思考に基づいて、家族と言う集団を見る癖がついたと思う。だからこそ、私は家族とは何か、と問い続けるのだろう。家族という言葉を聞いたら、まず一歩引く。線を引いて、考える。その単語に実体験を持って乗り出せるほど、私は家族を理解できないだろうと思っているから。

 理想の家族に私が放り込まれて、「はい家族!大丈夫、これからずっとこの家族で過ごせます!」と言われても、私は傍観者であり続けると思う。私以外の家族という集団の構成員たちに、私が悪影響を及ぼさないように。私自身が彼らの「理想の家族」という状態を壊さないために。

 そこら辺の考えが根本にある時点で、私はまぁ…気の置けない関係の家族の構成員じゃなかった人間らしさを垣間見せてしまうのだろう。私は気の置けない家族にいたことがない、従って「だろう」という予測しかできないけれども。

 信頼関係のある家族を見ていると、そのままでいてね。家族で乗り切ってこれからも仲良くね。と言いたい。私にとっての理想だけど、きっと私は自分の理想に手を伸ばすことはないだろうと思う。あくまで理想で、自分が「理想の家族」だったものを壊した原因かもしれない、という予想すらしてしまうのだから。「いなきゃよかった」と幾度か聴いたことがあるからかもねぇ。

 「私?まぁ家族からそれなりに嫌われてるんじゃないかな☆」と答える自信はありますよ私。自覚って大事だしね。そしてそう思っていた方が、自覚があった方が、予想外のダメージを食らわなくて済むものです。これは個人的な経験に基づく考えだけども。

 本当の家族ってなんだろう。どんなに調べて、体験して、たくさん出会っても、私は傍観者で、いつまでも問い続けるか、自分で強制的に終わらせるかして終わりを迎えるんだろうなぁ。傍観者として、私は誰かの幸せ、誰かの家族の幸せを願い続けよう。それが一番私にとって幸せなのだと思う。

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