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芸術とは個人の儀式である故に・・

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

今回は音楽業界を見ていて、
あくまで個人的に思った事などを少し。

最近の日本の音楽の世界を見ていると、
何かの[正しさ]や、[手順]に縛られながら、
[お客の為に][社会の為に]という大義名分を持ち、
音楽をやっている人達が多くて、
大変そうだなと思うんですよね(全員ではないけど)。

だからある種の人達は
[自己満足]という言葉を嫌うし、
プロという言葉にこだわるのかもしれません。

それは別に[悪]では勿論ないです。

だけど、ひねくれ者である私は、
芸術に関しては、
何をしたって[人生は壮大な自己満足]に過ぎないし、
人生は[身勝手]なものだと思ってしまうのですよ。

それの何が悪いのだろうか?と。

自分が好きで狂気を持って、
どうしても作った作品に対して、
結果、誰かが楽しんでくれればそれでいいし(何百年後でも)、
そんないい加減な事で舞台(世界)は成り立つ。

まぁ、私と違って、
みんな真面目なのかもしれません(笑)

「学者を名乗るには大学出じゃないと・・」
と社会承認を求めるのも、
大人になると昆虫採集をやめて
「いい歳して虫取り?」と言う様になるのも、
「音楽家として社会の役に立つ為には・・」
と言いだすのも、根は同じなのでは?と思うのです。

子供の頃していた宇宙との対話を、
社会との対話に切り替えて、
社会に承認してもらう事への欲求に
支配される者
が多いのかもしれない(音楽家ですら!!)

だけど各分野に純粋なものを渇望している部分も
まだ生きているから、妙に苦しんで葛藤する事になる。

部族の成人の儀式とか通過儀礼とか
(バンジージャンプとか)
伝統文化としてはあってもいいですが、
協調性の無い私は、
「くだらない。
怖かったり、嫌なら逃げ出してしまえばいいのに」
と思うのですが、
本人達にとっては死活問題なんですよね。
仲間に認められる事が
ある種の人達には死活問題なのでしょう。

日本の音楽社会にも同じ様なものは流れていて、
時として「社会的に多くの人の役に立つべきだ」
勝手にルールを作られるのですが、
芸術って、もっとシンプルで、
個人的なエネルギーなので、
個人が、己の魂の深層に入り込み、
神(世界)と対話する
[個人的な宗教儀式(ミサ)]
でしかなかった芸術が、
誰かの、大勢の、社会の役に立つ為の
[みんなのエンタティーメント]となってしまったのが、
芸術とその使い手達の不幸の始まりかもしれない
と思ってしまいます。

「楽しいからやっている」
「好きだからやっている」
それだけでいいのに、
なぜ人はそれ以外の大義名分(社会的な立派)
を求めるのか?

そんな事を私は考えるのです。

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