排水溝や下水の髪の毛や汚泥が貯まった場所をあえて考える詩や芸術もある
こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。
皆さんは芸術というと
何を思い浮かべますか?
やはり綺麗で、心に癒しを与えてくれるもの
でしょうか?
DECONTAMINATE(浄化)という意味では、
勿論、そういう作品によって
多くの人が救われてきた訳ですが、
人間は綺麗なものだけでは救われません。
神に魂を委ねる(COMMENDATIO ANIMAE)前に、
この現実を肉の身体で嫌という程、
生きていかねばならないからです。
そこに現実への嫌悪からの疑問や、
あるいは愛があるからこその皮肉が生まれます。
という訳で、西洋には
排水溝や、下水の髪の毛や汚泥が貯まった場所を
あえて考える詩や芸術もあるのです。
それは15世紀頃のヴァニタス美術(VANITAS)とも
共通点があるのですが(惨めさの描写)、
キリスト神学とも
実は大きな親和性があると私は思ってます。
それは
[人間社会が王冠や勲章を与えない場所に、
本当の真理の栄光は存在するのだ]
という
[キリストを罪人として十字架に架けた人類の罪]
に対する皮肉でもあるからです
(俗社会の否定、
絶対的を主張する社会価値観への皮肉)。
だからこの手の惨めな場所、
打ち捨てられた死体への哲学というのは、
ヨーロッパの多くの芸術に自然に潜んでいて
(クラシックだけでなく、ゾンビ映画にすら)、
そこを理解しないとクラシックも絵画も、
ただ[綺麗な作品]という感想で終わってしまうのです。
【作曲家アルカンの「貧しき者の亡骸に幸いあれ」】
それは、
[乞食が村に現れ、物乞いをした。
村人達は乞食を雑に追い払ったが、
実はその乞食は神様だったのです・・]
的な民話の根底にも流れているテーマであると言えます。
この様に、キリスト教芸術には
HUMILISとSUBLIMIS。
すなわち
低俗、汚れたものと、
高尚、高潔なものを並べて
この世界を表現する手法が
頻繁に使われるという事です。
私達「墓の魚」作品の
蛆、糞尿、魔女、死の悲惨さも、
信仰、栄光、神学、魂の気高さと
対比され、
表現されているのです。
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