自律神経失調症から鬱病、そしてアルコール依存症になり最期は膵臓癌で亡くなった母親を見送った私の話。


壮絶な人生とはどういう事を言うのか。

とにかくこれは私の母親がアルコール依存症になり、当時独身36歳だった私が母親の看病(看病と言うべきか?監視と言うべきなのか?)をしている最中に結婚、そして母親の死後に自分の手術とその直後に離婚をした時の話です。
私も壮絶だったと言えばそうかもしれないが、
壮絶なのは母親の方で私は大したことがなかったのかもしれない、そう言う麻痺感覚になっているのかも。


どこから話せばいいのか。記憶に残る母親の事からでも書こう。
私の母は周りが振り返るほどの美人で、また父も昔でいう「ハンサム」でお互い一目惚れで知り合って恋愛し結婚したらしい。ごく普通の出会いだけどお互い美男美女なもんだから、周りからはモテまくってたみたいだし、父に関しては結婚してからも浮気が絶えなかった。母も結婚してしばらく経ってからは心の隙間を埋める為男遊びが激しかったんだと思う。
私の小さい頃の記憶といえば父がスナックやキャバレーに行く度に、ワイシャツの襟元に赤い口紅のキスマークをつけて帰ってきては次の日それについて口論する両親、泣きながら家を出る母、それを追いかけて出ていく兄、冷たい家に取り残された私と逆ギレしている父。
その時私は母がちゃんと戻ってきてくれるのだろうか、と毎回この世の終わりの気分になっていた。でも何度もそういうことがあっても、必ず2時間後くらいには兄が母を引き連れて戻ってきてくれた。後から聞いた兄の話では、毎回同じことの繰り返しだったみたいだけど、家を出たら近所の国道4号線に架かる歩道橋の上で、飛び降り自殺をはかろうとする母を止め(兄だって当時10歳程度だったから大変だったろうに)その後落ち着いたら近所の喫茶店に行き母はビールを、兄はクリームソーダを注文して、それがなんだか毎回楽しみというか嬉しかったみたい。
ある朝こんな事もあった。
起きてみると、母と兄が怒りながら父のセーターを鋏でジョキジョキ切っている。聞くとどうやらそのセーターはスナックのママにプレゼントされたものらしく、やきもちを焼いた母を気遣った兄が思い切って切ったらしい。今思えば、それはママからの顧客を思うただのプレゼントなのか、それとも別の思いが添えられたプレゼントだったのか分からないけど、なんか幼心にして衝撃的なシーンだったのは覚えてる。

それと父には「幸子」という愛人がいて、その存在がずーっと母を苦しめていた。意地悪な義母も同じ名前の幸子で、うちは幸子に呪われてるね、なんて冗談も言っていたが。
まだ30代だった母にはそんな状況、すごく辛かっただろうなって思う。だって、大好きな夫が常に浮気して、飲んで帰ってきては口紅のついたシャツを目の当たりにして。これが何十年も連れ添った夫だったら、あーはいはいって思えるのかもしれないが。
夫がそんなんだから、心の隙間を埋めるために
母も浮気を続けた。
小学校の体育の先生と噂になったり、近所の飲み屋の常連と夜を過ごしたり。私には知らない事をたくさんしたのだと思う。とにかく常にモテていたので外に出歩く時間が増えていた。パートにも出かけてそのまま飲みに出かける事もあったので
私の小学校の頃の思い出のご飯は、ほかほか弁当のハンバーグ弁当だった。

と言うとすごく悪い母親に思えてしまうが、
そんなことは全くなくて、とても優しくなんでも手作りしてくれる完璧な母親だった。
私が小さな頃は、母は洋裁を習っていたので
常に洋服は親子でお揃いのワンピースやチュニック、ご飯もとても美味しくて、おやつなんてクレープもおはぎもゼリーもなんでも手作りで作ってくれた。手先が器用で籐の籠を作ったり、紙粘土でオブジェを作ったり観葉植物で部屋を明るくしたり、常に部屋を綺麗にしていて家にいる時は完璧な母親だった。

完璧だからこそ、繊細で潔癖なところもあった。
そして、何しろヒステリックだった。
私と兄がよく母の前で兄弟喧嘩をしていたのだけど、それがヒートアップすると母は、「ギャーーーーー!!ヒーーーーー!!」と、髪の毛を掻きむしって頭を振り乱し目を白く剥き出しておかしくなった。まるで何かが母に取り憑いて身体中を蝕むみたいな。毎回それが死ぬほど怖かった。しばらくその痙攣のような動きを見て、それが治ると心の底からホッとして、いつもの母が戻ってきたと安堵した。これは、幼少期何度も目にした。

こういうことは誰もがやるのかと思っていたが、自分が大人になった今、私の母はやはり精神的に少し疾患を抱えていたのかなと思う。こんなに頭を振り乱してヒステリーを起こす人を見た事がないから。

母は3人兄弟の真ん中で育った。上に兄、母、そして6歳離れた妹。ごく普通の幸せな家庭で、祖父は市の職員を務めていてとても立派な人だった。功労賞も受賞した。お盆やお正月には常に誰かが出入りをしていてお客様の多い賑やかな家だった。自称「お嬢様」の母は、とてもプライドが高くわがままだった。そして常にいいものを身に付けていて、すっぴんではゴミ捨てもいけないほど完璧に化粧をしないとダメな人だった。
きっと実家にいた時から甘やかされていたのか、全てを手に入れないと気が済まない人だった。我慢をすると言う事ができない人だった。
なので結婚生活をしている時でも、カードで勝手に買い物を繰り返し、気がつけば借金が何百万にも膨らんでいた。それを返済していたのは父親ではなく、祖母だった。私がそれを知ったのは離婚調停をしている時に父親から聞かされた。母親がそんな膨大な借金をしていたなんて知らなかったからショックだった。
私の前では完璧な育児をしていつも優しくて大好きな母親が、借金を膨らませて買い物を繰り返す。何かすごくとてつもなく悪い事をしていて、とても遠い存在に感じた瞬間だった。悲しかった。

兄は小学生の頃生徒会長を務めるほど真面目な性格だったが、中学になって振り切る程グレた。
田舎だったし、環境が悪かった。ちょうど父が単身赴任でいなくなり、ヤクザの息子と弛むようになり完璧なヤンキーというくらいにグレた。
中学でもいわゆる「アタマ」になった。家庭内暴力も凄まじく、母と喧嘩しては暴れて家中のものを壊し、時にはご飯の入った炊飯器が丸ごと宙を飛ぶこともあったし、母にナイフを突きつけて「殺すぞクソババア」と脅す事も何度もあった。
外では喧嘩と盗みを繰り返し、唇や耳をナイフで切られて帰ってくる事もあった。その度に母はおかしくなった。今では思い出せないが、酒に頼る事もたくさんあっただろう。そんな兄だったから余計に私には「あなたは真面目でいい子よね?そうだよね?」と、勝手に真面目と言うレッテルを貼りつけて私を生きる望みにした。
そんな過剰な期待が負担になり、私も中学に上がったら万引きを繰り返した。
私自身、自分はそんなにいい子とは思ってなかったし、真面目だろうというプレッシャーに押しつぶされて何か悪い事をしなくてはという強迫観念に追われていた。
もちろん万引きがうまく続くはずもなく、あっけなく警察に捕まった。捕まったのは夜だったのだけど、母は飲みに出掛けていて家にいなく、父親も単身赴任でいなかったので、迎えに来たのは中学の担任だった。
朝方母が帰ってくるなり、叩き起こされて平手打ちをくらった。叩かれたのはこれが最初で最後だった。私も母も死ぬほど泣いた。あの時の母の歪んだ顔が今でも忘れられない。それ以来私は、母の望むような子になろうと努力をして、成績でもトップの方にあがった。高校も割と偏差値の高いところへ進学をした。

高校生の頃は、自由に遊びまくった。1.2年生の頃はバンドに夢中になり、掛け持ちをしてライブをしまくり、その他はバイトにも入れ込んで家は帰って寝るだけの場所になった。先輩たちと飲みに出掛けたり、大人の世界に憧れて背伸びをした。
そんな私を両親は一切怒らなかった。父は、「他人にだけは迷惑かけるなよ」しか言わなかったし、母はこの頃から自律神経失調症、鬱が酷くなり入退院を繰り返した。友達といる事が楽しすぎて、お見舞いも殆ど行かなかった。でも退院すると、私をよく飲みに連れて行ってくれた。高校生の娘と居酒屋に行き、タバコも吸わせてはお酒も平気で飲ませる人だった。
友達みたいな感覚だったのだけど、私もそれでいいと思っていたし、大人びた事をしたくてたまらない歳だったから厳しい母親よりかはいいかなと思って調子に乗っていた。

母と父は子供にあまり興味がないのか、生きていく上で教訓的な事を言ってくれる事もなく、何かこう心に響く教えだったり、もしくは私も父や母のようにこうなりたい!て思える事があまりなかった。浮気を繰り返して飲みに出歩き、休日はパチンコかゴルフで不在な父、家のことはたくさんしてくれてたけど、ヒステリックで結局自分の事でいっぱいいっぱいだった母。
自由な高校生活だったけども、私は早く家を出たくてたまらなかった。東京に行きたかった。
勉強しなかったおかげで見事に成績が上から下まで転落したので大学なんて選択肢はなく、就職するか専門学校に行くかだった。ファッションが好きだったので、何となくファッションデザインの専門学校を選び、祖父に学費をお願いした。
うちはいつもそうだった。何か大きな出費は祖父が出してくれていた。
学費は出してくれたものの、毎月の仕送りをどうするかで話し合いになり、両親はとてもじゃないけど何万も出せないという事で、千葉に住む従姉妹の家に下宿することになった。
上京は割とすんなりと決まった。

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