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選ばれること→選ばないこと→選ぶしかないこと

「自分で選ぶことができない。」

「自分で選びたくない。」

「選ぶことに疲れた。」

そんな空気が蔓延している。

ポストモダンと言われる思想では、当時の経済成長と消費社会の影響で、「消費活動によってその時なりたい自分になる」ことがもてはやされていたので、1つに選べない人間は「いつでもなりたい自分になれる」こととしてポジティブに評価された

しかし、バブル崩壊や新自由主義によって社会が消費社会から競争社会に変化し、何か1つにコミットして競争を勝ち抜かないと生き残れない社会では、
1つに選べない人間は競争社会への参入を拒む「引きこもり」としてネガティブに評価された

2021年現在でも「選ぶ」ことの難しさは全く変わっておらず、「選択疲れ」と言うべき状況に陥っている。

選ばれることを待つ

知り合いで30歳くらいの女性がいる。

宴会芸を披露してお酒の場を盛り上げるのが好きな彼女は「芸人だったら私は売れてる」というのが口癖というか、愚痴になっている。

その度に「だったら仕事辞めてオーディションでも受ければ?」というマジレスをグッと我慢するのだが、いつも彼女の気持ちは何かわかるような気がしている。

自分で新しい道を選ぶのは怖いが今の道を歩いている自分に満足もできていない。でも「いつか誰かに選ばれるかもしれない自分」を想像することで「まだ選ばれていない自分」をなんとか正当化できる。

近年流行しているコンテンツでもそんな空気感は感じ取れる。例えば、バチェラーやバチェロレッテは異性から選ばれる物語として観ることができるし、 去年のNiziUブームもまた、選ばれるための努力を物語にしている。

はたまた、近年の小学生のなりたい職業ランキングでは「Youtuber」が上位にランクインする。しかし、ただYoutubeに投稿するだけではYoutuberを職業にすることはできない。Youtuberは自分で選べば誰でもなれる職業ではなく、多くの人に視聴することを選ばれてから初めて職業になる。

選ばれるために努力することの美しさや選ばれることに実力だけでなく運の要素も含まれることが「誰かに選ばれること」を神秘化し、「自分で選ぶこと」を過小評価する。

常に自分の選択よりも他者の選択に価値がある。もっと言うと、他者に選ばれて初めて自分の選択に価値があったと断言できるようになる。

逆に、他者に選ばれるという経験をしない限り自分の選択が正しかったと言うことができない。選択ってなんて長期的な営みなんだろう。

選ばないことを選ぶ

近年流行っているサービスでサブスクリプションサービスがある。

サブスクが人気の理由の1つに経済的なメリットだけではなく選ぶことが関係している気がする。サブスクは色々なコンテンツが定額で楽しめるのでそもそも1つに選ぶ必要がない。選ぶことに疲れた人間にとってはこれほど楽な選択はない。

そしてこれも去年知った言葉で「拡張家族」がある。荒っぽい説明になるが、拡張家族は所与として与えられた家族ではなく、家族に入りたいと思った人をメンバーに入れて共同生活をするコミュニティである。趣味や大事な価値観さえ共有していれば家族になれるし、妻だけが負担していた家事や育児も拡張家族内で分担したりしているらしい。特段これについて賛成も反対もないが、自分が惹かれるとすれば結婚相手を1人に選んで家族を作るという選択をしなくていい点にあると感じる。

今挙げた2つの例はどちらも、何かを選んでいるようで実は1つに選ぶという選択を回避している。(もしくは選択を先送りにしている

「1つに選ばないこと」を通してたくさんある選択肢を「全て選ぶこと」ができる。豊富な選択肢を選ぶことなく自動的に、所与のものとして受け取ることができるのだ。もはや「選ぶ」というよりも「選択肢を所有している」という方が適切かもしれない。

全ての人がこんなことはできない。

※そもそもサブスクリプションサービスなんて数千種類のコンテンツが月額数百円で楽しめるなんて価格破壊を起こしているデフレの国、つまり先進国でしか考えられないサービスである。

選ばないことを選べない人(=選ばざるを得ない人)との「選択の格差」は生まれる。

つまり、こうだ。

1つしか選べない人 vs 1つに選ばなくていい人

これは2016年アメリカ大統領選の構図に似ている。

当時のアメリカは、

Nowhere(1箇所でしか暮らせない人)vs Anywhere(どこでも暮らせる人)

といった政治対立として記述されている。

Nowhereを代表するのがアメリカ中西部・ラストベルトの没落した白人労働者階級で、Anywhereを代表するのがシリコンバレーのリベラルエリートや移民である。

1つの選択肢で選ばざるを得ない人と、わざわざ選ぶことなく膨大な選択肢を享受できる人の分断はアメリカだけでなく、日本でも「専業主婦vs夫」などの対立軸として描くことができる。


で、ここからが本題であるが、選択肢が少ない人にも多数の選択肢を与えればいいのか?

僕はそう思わない。

なぜなら「選択肢がたくさん用意されていること」が自由なのではなく、「選択肢がたくさん用意されていること」と「選択肢から選びたいという欲望」が両方セットで提供されていることが自由の条件であると考えるからだ。

やるべきことは「選択肢をたくさん用意すること」と同時に「選択肢から選びたいという欲望」を作ることだ。

選ぶしかないこと

ここで精神分析学の祖であるフロイトのエディプスコンプレックスが参考になるかもしれない。

エディプスコンプレックスを要約するとこうだ。

今、父親・母親・息子の3人家族がいる。息子は母親と理想の生活を営んでおり、母親のサポートの下で自分がやりたいことをなんでも実現できる万能感を感じている。しかし、肝心の母親が父親と愛し合っていることに気づくと深く傷つくと同時に父親には敵わないことを悟る。息子は万能感を失っ(=去勢)てから自分とは何ができるのか、を確認するために家族の外へと開かれるようになり、次第に自我を獲得していく、、、

※読めばわかるが男性中心主義、家族中心主義、性表現が露骨な思想家なので評判は結構悪い。

しかし、自分の限界を知ること、禁止を強いる超越的な存在が自分の外にいること、をきっかけとして自分が何なのかわかってくる、さらにその自分を変えたいと思って向上心を抱くというストーリーからただ単に選択肢を増やしていくだけが豊かさだという主張を脱構築できる。

行動すればするほど自分ができないを思うことが増える。行動すればするほど自分の限界がわかる。

でもそれは決してネガティブではなくて自分が選びうる選択肢が減っていくことで逆に自分が選びうる選択肢の輪郭が明確になってくる。

僕が今住んでいる福島で震災によって大事な人や大事な家を失ったことで自分のやることが明確になったり、選択する覚悟や欲望が形成されたという人がいる。

それは震災によって新しい選択肢ができたというよりも、選択肢が災害によって狭まったことで元々あった選択肢の優先度が上がってきてコミットしたいと思うようになったということだ。

先ほど、

やるべきことは「選択肢をたくさん用意すること」と同時に「選択肢から選びたいという欲望」を作ることだ。

と述べた。

この一文は「選択したいという欲望を作る」よりも「ただ選択肢を増やす」ことが重要視されすぎている世論を念頭に置いている。

この10年間を振り返っても小学校で英語、ダンス、プログラミングなどが必修科目になったばかりでなく、タブレット端末が1人1台手渡されるようにもなった。やたらと新しい選択肢ばかり増えているがそれを選びたかったのかどうかは怪しいと言わざるを得ない。

選択肢を増やす社会では「選択肢を諦めること」に冷たい。

でもまあ、たしかに諦めたらそこで試合終了なんだけども、諦めても人生終了じゃないからこそスポーツを楽しむ余裕は生まれる。

諦めたくらいではその選択肢がなくなるくらいで、逆にそれ以外の選択肢にリソースを全振りできるチャンスとしてポジティブに捉えることが選択肢を所有できない場合の戦略になるのかもしれない。

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