制度からこぼれ落ちた人のケアを考える
世の中不条理だなと思うことが多々ある。
僕の場合は、頑張っている人が報われないことに目が向いてしまう。
原体験は家庭環境にあったと思う。
自分の身内には障害者がいる。
彼は特別支援学校に通った後に就労移行支援事業所に通っていた。
そこで見つけてもらった求人票を頼りに就活を行うのだが、大抵の場合コミュニケーションが取れないからと言って不合格になってしまう。コミュニケーションは二者以上で行うものなのだから、彼の責任にだけするのはおかしいといつも怒りを覚えていた。
幸いにもいい会社で採用をもらうことができたが、福祉的就労になっった場合は最低賃金以下の給料で働くことになっていた。
ある時見学に行ったのだが1日働いても600円しかもらえず、昼食も交通費も自己負担なので働いたとしてもほぼ交通費と昼食で消えてしまう額だ。この金額で自立なんて不可能だろと怒鳴り込みたかったくらいだ。
身体障害者がバスの乗車拒否されたり、優生保護法のような法律が存在している頃から比較すれば障害者福祉は進歩しているといって問題ない。しかし、制度はいまだに完璧じゃないし、完璧な制度なんて障害者福祉以外を見渡したって、日本以外の海外を参照したってどこにもないと思う。
だからといって制度は疎かにできない。日本では自助・共助・公助のうち、共助は全く期待できない。なんといっても車椅子や妊婦さんが電車に乗っていると舌打ちをされてしまうような国だから。
人間の善意や思いやりに頼れないからこそ、人間の善意に関係なく制度として障害者に再配分し、事業者が合理的配慮を提供する方が安心して社会生活を営めるはずだ。
と、同時にやっぱり僕は共助も諦めたくない。常に完璧ではない制度からこぼれ落ちてしまう人がいるのであれば、その不条理をケアしてあげることがミクロレベルで必要な取り組みだと思う。
特に制度の境界線上にいる人に対するケアについて僕は一番考えたい。
制度が守ってくれる領域から完全に外れている人については「被害者」としてすでにスポットライトが当たっているケースが多いし、被害者として加害者を徹底的に批判することが正当化される。
しかし、解釈する人によって守られたり、守られなかったりする中間的な存在を制度は守ってくれないし、守ってくれということすら憚られる。
僕はこの中間的な存在を自分の母親に重ねている。
障害者の母親として、家庭内のケア、煩雑な行政手続きなどを自分の仕事や家事と両立しながらやっていた母親は時々「誰かに代わって欲しい」ということを言っていた。それでも継続してくれていたのは自分の育児に何かの間違いがあったのかもしれないという自省や後悔だったと思う。
「なんで自分だけが、、」という思いと「自分のせいだ、、」という思いが絡み合った複雑な心情を僕は今になるまで理解できずケアを怠っていた。
そんな反省から加害者性と被害者性を持った両儀的な人には深く同情してしまう。
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