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加害者の不在・被害者の過剰

前回は自分の立場が曖昧な中で他者と関係を作るという厄介な問題の解決を外在化することで気楽に生きる代わりに問題の解決は先に後回しにされてしまうという点まで記載しました。

今回は、少し遠回りします。

伝承館を訪れて

先日一人で東日本大震災・原子力災害伝承館に行ってきました。地図で見ると事故が起きた第一原発のすぐそばに建てられ、震災の記憶を保存する役割を果たすものと考えられます。(2時間くらい展示を見てみて勉強になったので是非足を運ばれることをお勧めします)

訪れて感じたことは大きく分けて2点あります。1つは僕が被害者なのか、加害者なのかわからないという葛藤は、多重的に起きてしまった事故の性質と関係があるということです。東日本大震災は1つの固有名で呼んでしまっていますが、本来、地震・津波・原発事故・情報災害の4つに区別されるもので、地震に関しては自分も被害者としての側面があり、原発事故と情報災害に関しては自分にも加害者としての側面がある、とスッキリ理解することができました。

2つ目は、展示されているものは被害者の歴史にフォーカスされているということです。シンプルにいうと加害者不在の歴史です。前述したように東日本大震災は地震・津波・原発事故・情報災害に分解して考えることができるもので原発事故・情報災害に関しては文明の利器が起こした事故として、事前のリスクヘッジを欠いていたとして人間の加害性が無視されていいとは考えません。

しかし、現在も誰が明確な加害者なのか、司法によってもはっきりしないまま10年が経とうとしています。

以下にリンクを貼りますが、要約すると、どの程度の被害なのか、国や東電はその被害を事前に予測しえたのか?は原告が誰なのかによって異なるはずなので全ての震災関連の訴訟を横並びに比較できるものではないと考えますが、とりあえず全ての問題を東電や国に負わせてスッキリ解決できる類の問題ではないことだけはわかります。

このような状況下で、国や東電が引き起こした人災であるという展示は難しかったのではないかと考えます。

意志なき罪をどう扱うか

誰が加害者なのかを決めるのは司法に期待するしかないというのが私の意見です。しかし、司法で問題にするのは、罪という結果と人間の意志です。意志を媒介にしてしか人間が犯した罪を考えられないのであれば、国や東電が主張するように「想定していなかった」とか「こんなつもりなかった」とか、意志なき罪を考えるときに司法というツールは向いていないのではないか?とも思います。

ここまでの記述では誰かの犠牲に上に誰かが利益を得ることを「犠牲と成長のシステム」と名付け、そのシステムに覆われることで私たちは被害者の側面と加害者の側面を両方持ったまま生きていることを書いてきました。そしてそのシステムには明確な製作者がいません。誰かが設計して作ったわけではなくいつの間にかこんなに大きくなってしまったと言ったほうがいい。言い換えると、意志を持った製作者(加害者)が不在のままシステムだけが、どんどん膨張しているのです

また、前回は被害者だとか加害者だとか難しい問題について考えないほうが戦略的に正しくなっているということも書きました。それはシステムの問題点について考えるという意志を持たずに、とりあえずシステムにぶら下がっておくことを意味します。そして、システムが破綻した時だけシステムの問題点に気づき、そしてまた積極的に忘却する。システムに参加している人間が意志もなくこのループを繰り返すことが現代の問題点なのかもしれません。

(続く)

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