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映画『落下する夕方』 (ネタバレ感想文 )欠けた家族とかぐや姫

上品な映画です。
江國香織の原作も上品なら、合津直枝の演出も上品、主演の原田知世も上品です。
今となっては「時代」を感じる部分もないわけではありませんが、一歩間違えたら韓国ドラマみたいな下卑た話になりがちな設定を、上品さで踏みとどまっている印象。

私がこの映画を観るのは30数年ぶり。初めてのスクリーン鑑賞。
合津直枝が自ら監督した映画ってこれしかないのかな?
テレビだとNHK連ドラ『書店員ミチルの身の上話』(2013年)が良かったな。舞台の演出も何作かあって、私は向田邦子原作「ふたり芝居『家族熱』」というのを観に行ったことがあります。
あとはプロデューサーですね。『幻の光』(1995年)で是枝裕和を映画監督として世に送り出した人。

映画は、原田知世が4年も同棲していた渡部篤郎に捨てられるという話です。
渡部篤郎が原田知世を捨てて向かった相手が自由奔放な菅野美穂。
ところが菅野美穂は渡部篤郎と暮らすどころか、一人暮らしになってしまった原田知世の所に転がり込む。
「元カレ」「元カノ」という言葉はまだ無かった時代ですが、渡部篤郎視点で言えば「元カノ」と「今カノ(片思い?)」が同居してしまうという話です。
ちなみに原田知世の親友役が国生さゆりなんですが、今の目で見ると、原田知世&菅野美穂&国生さゆりって、なんだか意外な組み合わせ。そう思うのは俺だけかな?

私はこの映画を「原田知世が静かに失恋していくまでの物語」だと、長いこと思っていました。
今回再鑑賞したら、「原田知世が逃げていた(目を背けていた)物事を直視するまでの物語」だということに気づきました。
事故に遭って不随になった友人を避けていたという原作にないエピソードもそうですし、国生さゆりのエピソードもそうです。そして「失恋」自体もまた、彼女が目を背けていた事実なのです。
だからこの映画は「失恋する物語」ではなく「自分で恋愛に決着をつけるまでの物語」だったのです。

もう少し言うと、この映画、やたらと「子供」が出てきます。お祭りまで子供神輿だしね。
これは「家族」からの逃げ、言い換えると「女は結婚して子供産むのが当然」という(当時の)風潮に「目を背ける」女性たちの物語のようにも思えます。
原田知世に限ったことではなく、菅野美穂も国生さゆりも同様です。おそらく、江國香織の視点というよりも、ゴリゴリ仕事人(だと思う)の合津直枝の視点なのかもしれません。
例えばこの映画、何度か口の端に「すき焼き」が上りますが、一度も食べられないんですよね。これはたぶん、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)的なコメディーではなく、「すき焼き(あるいは鍋)」が「家族」の象徴だからだと思うのです。

この「家族」に関する点をもう少し深掘りすると、原田知世は父親が亡くなっている設定、菅野美穂は母親が亡くなっている設定と、「欠けた家族」なんですね。途中出てくる日比野克彦もそうだな。てゆーか、なんで日比野克彦なんだよ。

「家族のあり方」って、前述した「女性の社会的立ち位置」と並ぶ、この時代の大きな変化の一つだと思うんです。
森田芳光が『家族ゲーム』(1983年)で「家族なのに他人みたい」という家族像を提示して以降、もはやサザエさん的な家族像は崩壊し、その後、園子温『紀子の食卓』(2006年)や三木聡『転々』(2007年)が「他人なのに家族みたい」という擬似家族を提示し、「家族を演じる」黒沢清『トウキョウソナタ』(2008年)に行きつくのですが、これを語り始めると長くなるので今回はやめときます。

別の新発見。
菅野美穂に焦点を当てると「ホリー・ゴライトリーの物語」だということに気づきました。
『ティファニーで朝食を』(61年)でオードリー・ヘプバーンが演じた主人公です。この映画の菅野美穂の「物語」が重なります。
岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016年)でCoccoが演じた役にも重なります。

シンデレラ物語の『ティファニーで朝食を』と、
浦島太郎物語の『リップヴァンウィンクルの花嫁』と、
竹取物語の『落下する夕方』が繋がったことに、自分で書いておきながら驚いています。
そうです、この映画(の菅野美穂)はかぐや姫なのです。

原田知世が「月の裏側が見たい」と言いますが、菅野美穂の「素性」が月の裏側に相当します。
「実はかぐや姫は月の世界で罪を犯して地球に流された」と渡部篤郎が話しますが、菅野美穂が幼い頃に弟をケガさせてしまった話が、彼女の「罪」に相当します。
そんなかぐや姫は、突如この世界に舞い降りて、周囲を翻弄して去っていくのです。

最近、シスターフッド映画が多いように感じられますが、この映画はその理想形に思えてきました。
今時のシスターフッド映画はことさら「女性同士の絆」が描かれますが、この映画は、菅野美穂の「竹取物語」は原田知世が(映画の構造上の)「語り部」として機能し、原田知世の「直視するまでの物語」では菅野美穂がカンフル剤として機能する。
つまり、「女性の絆」という一つの物語ではなく、それぞれの物語に互いが関与し合っている。まあ、間に「男」を挟んでいますがね。

少し余計な感想を言うと、今観たから思うのかもしれませんが、少し菅野美穂が浮いてるんですよ。
私が思うに理由が2つあって、一つは合津直枝が「小悪魔女子」の描写が下手なこと。
今時は「女性だから」って言ったら怒られるんだろうけど、実際小悪魔女子に騙された経験のある男の目で見たら全然。まるで空想上の生き物みたい。

真の小悪魔女子映画は吉田恵輔の『さんかく』(2010年)。超リアル。

もう一つの理由。
終盤、「バンビ」の話なんかを独白する菅野美穂なんかが真骨頂なんですが、この頃の菅ちゃん、全部持ってっちゃう悪癖があったんです。『エコエコアザラク』(1995年)なんて、主役でもないのに全部持ってっちゃうからね。私は「大竹しのぶタイプ」と呼んでいますが、周囲と関係なく自己ベストを演じるタイプ。
ちなみに、何でも周囲に合わせちゃう目立たない主役「田中裕子タイプ」というのもあります。実は宮崎あおいがそう。『NANA』(2005年)で一番感心したのは「こんなレベルの映画で浮かずに下手に見えない宮崎あおいが凄い」というのが最大の感想だったもの。

え?原田知世?
今回改めて気づいたけど、実は「桃井かおりタイプ」だった。
何を演じても、桃井かおりは桃井かおり。原田知世は原田知世。

監督:合津直枝/1998年 日

(2022.05.25 神保町シアターにて再鑑賞 ★★★★☆)

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