映画『フェラーリ』 マイケル・マン、老いてなお健在(ネタバレ感想文 )
イタリア人たちが英語しゃべってるのはどうかと思いますが、まあ、吹き替えみたいなもんだと思いましょう。
私はマイケル・マンが好きです。
きっかけは『ラスト・オブ・モヒカン』(1992年)
マイケル・マンの監督作は8年ぶりくらいなのかな?
私は『パブリック・エネミーズ』(2009年)以来なので15年ぶりくらい。
あの映画は、強盗専門の脚本家と社会派好きな脚本家とガンマニアの監督が全員バラバラな方向を向いている印象でしたけどね。
私はマイケル・マンを「無精髭と銃を描く作家」と評しています。
要するに「男の美学」を描きたい監督なんだと思うんです。
「美学」と書いて「カッコイイ」と読む。
カッコイイ男じゃなくて、男のカッコイイ!ね。
女の子の「カワイイ」の対局みたいなもんです。
そして、この映画の根底にある、というか表層的にある「男のカッコイイ」はこれです。
いいクルマといいオンナ
この映画に登場する若いドライバーは皆そうです。
こんな夜にお前に乗れないなんて。どうしたんだ ヘヘイベイベー、バッテリーはビンビンだぜってわけです。
マイケル・マン81歳。
本作は構想30年だそうですから、構想当時初老のマイケル・マンが同世代の「男の美学」を描きたいと企画したものの、何があったのか、老人になってから実現したということなのでしょう。
そして、老人目線で初老の男の「カッコイイ」を考えたところ、それはもはや「いいクルマといいオンナ」なんていう色と欲を超越していたのです。
この映画は、夢や理想を超えた先でぶち当たる「苦悩」の物語です。
その受勲した勲章から「コメンダトーレ(騎士団長)」の愛称で呼ばれた男の「半生」を描いた作品……ではありません。わずか数か月間の話。
「いいクルマ」を突き詰めた先でぶち当たる経営問題。
「いいオンナ」を手に入れた先でぶち当たる子供の認知問題。
その他諸々いろんな課題がこの短期間にのしかかる。
ある意味、栄光から没落への「終わりの始まり」の物語とも読み取れるのですが、実際のエンツォ・フェラーリを知っちゃってるからなあ。ついこの間まで生きてたもん。それほど歴史上の人物ではないんですよ。
いやまあ、所詮、小学生でスーパーカーブーム、大学生でF1ブームを体験した程度のフェラーリ知識しかないんですけどね。赤けりゃ3倍早いと思ってますから(<それはガンダムのシャア)。
「フェラーリと言えばお家騒動」という昔のイメージがあったんですが、それはエンツォが愛人の子を残して死んだからなんだとこの映画でわかりました(笑)。
さすが「イタリアの種馬」(<それは『ロッキー』)。
違う、「イタリアの跳ね馬」だ。
ちなみにドイツの「跳ね馬」エンブレムはポルシェですけどね。
1976年のF1を舞台としたロン・ハワード『ラッシュ/プライドと友情』(2013年)でも、1964年のル・マンを舞台とした『フォードvsフェラーリ』(2019年)でも、エンツォ・フェラーリは登場します。
しかしその頃のコメンダトーレは、もはや天皇のような雲の上の存在、あるいは巨大な敵役、デスラー総統みたいな扱い。
もしかするとマイケル・マンは、神のような存在だった人物の「人間味」を描きたかったのかもしれません。
アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』(2005年)と一緒(<それは違う)。
つまりね、マイケル・マンは、初老の男の苦悩する姿に「カッコイイ」を見い出したんじゃないかと思うんです。
マイケル・マン、老いてなお健在。
しかしそれは、無精髭で銃をぶっ放すのがカッコイイ「マイアミ・バイス」の頃のそれではなく、年齢を経て年齢相応の「男のカッコイイ」を追求する姿に、健在ぶりを見たのです。
だけど、一番カッコイイのはペネロペ・クルスだったな。
あと、マイケル・マン、やっぱり銃を出さずにいられないんだ(笑)
余談
エンツォ・フェラーリが日常的に乗ってる車はアルファロメオだと思うんですよね、エンブレムから察するに。
で、調べたら、元々彼はアルファロメオの販売代理店をやってて、アルファロメオのセミワークスチームとして始めたカーレース事業がスクーデリア・フェラーリの前身なんですって。
そういうこだわりがマイケル・マンらしい。
ああ、あと、劇中登場するマセラティ。どっちも赤い車体で分かりにくいんだけど、こだわりのマイケル・マンだから史実通りなんでしょうね。エンブレムはちゃんとマセラティでしたよ。
ちなみにマセラティは、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』で五反田君が乗ってる車。
(2024.07.06 TOHOシネマズ日本橋にて鑑賞 ★★★★☆)