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ラクトアイス

そいつは2022年夏、私を狂わせた。

昨年、というよりほんの数ヶ月前までは、
「細いのを見るとそそる」と熱弁する友人を横目に
言われてみれば、まあ。という具合で。
ある種、宗教信仰上の違いのような、
分かり合えない好みのひとつとしか認識していなかった。

それが突然どうしたものか。
ノースリーブから顔をだすそれに
今夏の私は、異様にかき乱されている。
クリスマスにはケーキで正月には餅。
夏にはノースリーブから光る二の腕なのだ。

私自身でもこの“欲求”と呼ぶに相応しいか
疑問の残る感情に戸惑いを隠せないでいた。
どういうことか、というと「何か」したいわけではないのだ。
触りたい、噛みたい、挟まれたい、嗅ぎたい…
「これ」をしたら、達成したら解消、解放されるのでは?という“欲求”が自分のなかから見つからない。

細すぎても(もちろん太くても)駄目なそれ。

これまで私は尻に惹かれると自称していた。
様々な情事やピロートークから判別するに
所属すべきはそこであると。
満たされた経験が足枷になっている。というわけでもないのにいつの間にかレギュラーメニューだった。
むしろいつも物足りなさを孕みつつも
腰を打ち付け、やさしい言葉を浴びせながら尻をしばく。いつものプレゼンである。
相手方の評価も概ね悪くなかった。
決まって「痛いのはきらい」とフリから始まるが
終わる頃には自分の言葉を忘れている者ばかりだ。

最大の抗争派閥である、胸いわゆるおっぱいには、
もちろん幾度となく勧誘を受け続けた。
「こちらサイドの方がいい景色だ。」
「上玉を味わえばキミもすぐその気になる。」
あらゆる言葉であり、振動、ときに重量や
質感で私を引き込もうとする。
過激派であり最大勢力のひとつ。

もし私の“理想の胸”に出会っていたら
すでにマインドコントロールされ、
他の何よりもそれで起立を許す生き物にされていたかもしれない。
だが、現実に大事したそれらはどちらかというと
少し“これから”へのモチベーションを削ぐものが多かった。
中心部の大きさや形、色に至るまで
少年が抱くキレイはそこに存在しない。
社会を教わった気分だ。
その瞬間から『大きさは見るもの』と
ひとつの解釈が生まれた。

この仮説を幾度となく破ろうと
理性を忘れるように飛びついたことも
数えきれないほどあった。が、しかし、
ないのだ。
やはり、『大きさは見るもの』だと学ばざるおえない。
繰り返す中で単に見た目だけの問題でもないことを知る。
どうしてだろう、持て余すのだ。
トップスに手をかけ、下着姿を拝んだのを境に
熱が冷めていくのを感じた。
一度ではない。何度拝み、顔を埋めても
そこで終わりなのだ。

対して私の流派では、
常に、と言っても過言ではないほどに
しばき、擽り、弾力が答えを返してくる。
対話をしているのだ。現代人が苦手になっている、
コミュニケーションそのもの。
もっと強く、いや弱く。深く、浅く。

ずいぶん逸れた。
問題は、その二大勢力ではない、それを
“いつでも探しているよ。どっかにキミの姿を”
なことだ。
“向かいのホーム”までは共感せざるを得ない。
白くモチモチそうなキミは私をどこに誘う?
何をすれば満足できる?分からない。
ただ、分かっているのは、

2022年夏、私は狂わされている。

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