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劇場の入口で、走馬灯のように誰かの人生を考える。

うんと久しぶりに渋谷を歩いている。
中央線に乗り、吉祥寺で京王井の頭線に乗り換えて
終点で降り、唯一知っている109を目印に、右手に見えてくるどでかいドンキホーテには目もくれずに、わたしは足早に劇場へと向かっている。

渋谷へは滅多に来ることがないし人も多いしで、一体どこを見ていいかわからず、歩くときはいつもどこかしらを見上げている。
ごちゃごちゃ入り組んだ飲食店の看板の文字を片っ端から口の中で呟きながら、「トウキョウ」という映像を見させられているみたいに、よそよそしい気持ちでぎくしゃく歩く。

この街をホームみたいに闊歩できる人は、まして、この場所で自分の好きなことをして生きている人は、やっぱりトクベツなんだろうなぁとぼんやり考える。
たぶんこの先何十年東京に住んでも渋谷は慣れない。
断言できる。

✳︎

シアターコクーンは「わたしたち」のちょっとした憧れの場所だ。
大学の時、演劇部に所属していてぼんやり脚本を書いたりしていたのだけど、あまり熱心に活動していなかったわたしですら、この劇場の名前は知っている。 

初めて足を踏み入れたシアターコクーンは、チケットを握り締めた人たちの静かな熱気に満ちていた。
テレビでも見たことのある俳優さんに囲まれて友人が写っているポスターが目に入る。
好きなアイドルの話題で爆笑したりしているときとは違う表情で、なんだかキリリとしている。

✳︎✳︎

彼女はわたしの大学の同級生で、学内の演劇部で出会った。
15年とか果てしなく前、構内の狭くて薄暗いホールで一緒に芝居を打ったこともある。
メンバーは同期の女の子ばっかりで、にぎやかでとても楽しかった。
喫茶店で朗読をやるという卒業制作で、わたしの書いた物語(大人向け童話みたいなやつ)を演者として読んでくれたこともあった。
彼女はチャーミングなネコを魅力的な声で演じてくれた。

35歳になった今、みんなそれぞれいろんな仕事を経験して、遠くへ行ったり、結婚したり、お母さんになっていたりする。
だけど彼女だけは本当に変わっていない。
目標ひとつだけを同じ濃度でしっかり抱えて舞台に立ち続けている。

わたしは、たまに、本当に勝手にだけど、彼女の人生を自分の人生と重ね合わせて考えてしまう時がある。
時間の経過とともに周りだけがどんどん変化して、自分自身も変化を求められたり扱われ方が変わったりするなかで、自分という存在をふと考えたとき、すごく怖い気持ちになっていないかな。
この道はちゃんと目的地にたどりつける道なんだろうか、って。

わたしはいつも、とてもこわい。
女という生き物が一番変化する年代に、自分だけが変わらずに一つのものだけを抱えて歩くのは本当に力がいることだから。
でも、胸の内を吐露せず、不安を撒き散らかさず、もちろん誰のせいにもせず、男も女も関係なく、妥協もせずに、彼女は自分の足だけでこのシアターコクーンまで来たのだ。
そう思っただけで、なんだかすごくどきどきした。

舞台は最高だった。(舞台の感想なくてごめん)
名だたる俳優さんに囲まれながらの堂々とした演技もそうだけど、カーテンコールでまだ芝居の名残を顔に貼り付けた、困ったような表情で笑っているのを見てちょっと胸が苦しくなった。
周りは総立ちだった。
(わたしはちょっと照れくさくて立てなかったんだけど)
ぼうぜんと舞台の終わりを目の当たりにして、同時に、勝手に何者にもなれない自分と重ね合わせていたことを後悔した。
たぶん全部的外れだった。

コクーンを出て、また渋谷駅へ向かう。
なんだか浮き足だった気持ちで。
彼女が戦っている渋谷が今度はキラキラして見えた。

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