ふりこふりお

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最近の記事

ベルリンより、愛を込めて。1

東京からベルリンに移って半年ほどたった頃、Tagesspiegelというこちらの日刊新聞を読んで、記事をかたっぱしから日本語に訳して発信したいと思ったことがあった(まだFacebookもTwitterもない時代)。記事の内容そのものはたわいもないものだったと思う。僕が心を動かされたのは、文章の調子だった。なんとも軽快な語り口で、文語体が口語体に切り替わったかのような新鮮さがそこにあった。そこには、語っている口と声があった。ちょうど話す人の声の抑揚が感情を表すように、新聞の文体

    • 世界の微妙なバランスについて

      この間、今のきな臭い情勢について、同世代のやはりベルリンに住む知り合いと言葉を交わした。開口一番、彼は僕にこう言った。「君はドイツ観念論者だね」。そして、世界を短く解説してくれた。「いいかい、世界は微妙なバランスの上に成り立って来た。それが今崩れかけているんだよ」。僕はそういうバランスこそが世界の平和の基盤だとは信じていないので、米国が日本の安全を保障するというのは一種の迷信じゃないか、と言った。むしろ戦争に巻き込まれる危険があるんじゃないのか、と。「今のロシアの状況とか、ち

      • 日本人の位置について

        みずからの立ち位置を定めようとするとき、周囲を知ることができなければ、正しく位置を定めることはできない。地理上の位置なのであれば、GPS衛星があれば分かる。自分という測定点と、遠くの「動かない」基準点と、地図。でも、ぼくはここで地理の話をしているのではない。 日本人の位置というのはどういうものなのだろう?比較のために、ぼくが住むドイツのひとびとを考えてみたい。ドイツは東西南北に地続きの隣国がたくさんあり、欧州の他の人々が自分たちをどう見ているのかをかなり気にする。どう見られ

        • ゼロであること

          5歳の娘が昨日から咳をしているので、今朝、幼稚園を休ませた。上の小学校の子供達は普通に登校し、妻は職業訓練の実習に出かけた。食堂のテーブルにパソコンを開いて、仕事をする(つもりになる)。いつもではないが、在宅で仕事のできることのありがたさを思う。娘は絵を描いたり、僕に話かけたり。ぼくはもうとうに若くないので、話かけられると、それまで考えていたことを頭のメモリに素早く格納することができない。「見て」と色々な模様のバリエーションを幾つも描いたカードをぼくの前に並べている。「うん?

        ベルリンより、愛を込めて。1

          君との朝食、そして一日。

          ベルリンの旧西部に、What do you fancy, love? というカフェがある。今日ぼくは君とそこで朝食を取った。君は、ぼくがとても尊敬するパパであり、シリアルアントレプレナーだ。自身の誕生日に君が書いたエッセイを読んで、心動かされてコメントをしたぼくに、君はすぐに返事をくれて、一緒に朝ごはんを食べよう、と言ってくれた。30分のカレンダー予約を送ったぼくに、それでは短いから一時間にしよう、と言ってくれた。ベルリンらしいし、君らしいと思った。 「毎日を、あたかも今日

          君との朝食、そして一日。

          海外で日本人の気持ちが分かってもらえないのはなぜか。気圧モデルで考える。

          「親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかりしている」とは『坊ちゃん』の冒頭の有名な一文だが、こと日本そのものについては、次の形容がむしろ当てはまるように思う。 「歴代譲りの内弁慶で近代の頃から損ばかりしている」国際会議に行くと、日本政府代表団はほとんど発言がないか、あっても極めて少ない場合が多く、とにかく一生懸命他国の発言メモをとって、あとは徹夜で内部報告書を作成しているパターンによく遭遇する。そして、仮にも発言する場合は、「ここで釘を刺しておかないと、A案を認めたとみなされ

          海外で日本人の気持ちが分かってもらえないのはなぜか。気圧モデルで考える。

          ドイツ語から見た、日本語における言葉の射程距離について

          ドイツに暮らしていると、大人も子供も1日に話す言葉の量は日本の3倍は行くのではないかと思うことがある。そもそもより多くの会話をする文化であることもあるけれど、同じ1分あたりでも、そこに詰め込むセンテンスやワードの数が違う。これはドイツ語から日本語への同時通訳をする人は痛切に思い知るに違いない。聞き取った内容をコアとなるメッセージに切り詰めて要約していかないと、とてもついていけないだろうからだ。それほど、使用される言葉の数が多い。 それはなぜなのか。ドイツ語と深くつきあうにつ

          ドイツ語から見た、日本語における言葉の射程距離について