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君との朝食、そして一日。

ベルリンの旧西部に、What do you fancy, love? というカフェがある。今日ぼくは君とそこで朝食を取った。君は、ぼくがとても尊敬するパパであり、シリアルアントレプレナーだ。自身の誕生日に君が書いたエッセイを読んで、心動かされてコメントをしたぼくに、君はすぐに返事をくれて、一緒に朝ごはんを食べよう、と言ってくれた。30分のカレンダー予約を送ったぼくに、それでは短いから一時間にしよう、と言ってくれた。ベルリンらしいし、君らしいと思った。

「毎日を、あたかも今日が人生最後の日であるかのように生きることを勧める人がいる。ぼくは、毎日を、それが自分の人生の最初の日であるかのように生きることを決めた」

君はそう書いていた。ぼくはこころからわくわくして君に会いにいった。人生の最初の一日のような初々しさを顔一面に湛えている君をぼくは想像していた。しかも今日は月曜日の朝。なんという新しい一週の始まりになることだろう!ぼくは目覚めから興奮していた。

コーヒーとクロワッサンを挟んで、君は弾丸のように話し始めた。人間の意識はチップに移すことができるようになるだろう。すでに外付け記憶が機能することはラットの実験で証明されている。もっと言えば、ぼくらが今ここに座って話していることだって、実は誰かのシミュレーションに過ぎない可能性がある。そうでない確率の方がいかに低いかということをこれから説明しよう。その話は、イーロン・マスクの発言としてぼくも読んでいた。そのような可能性があるという知能と論理のレベルの話は理解できる。でも、君は本当にそう思って生きることができるかい?とぼくは尋ねた。

君はぼくが宗教を信じているかどうかを知りたがった。君は自分の宗教経験や、一人で考え抜いて結論付けたことなどを語ってくれた。ファンダメンタリストほどコミュニティが強いこと、宗教コミュニティはドグマがあるからこそコミュニティなのであって、ドグマを崩すような新しい考え方はコミュニティの崩壊の危機を意味すること、だからこそ宗教コミュニティはドグマに執着することなど、君が考えてきたことをいくつか教えてくれた。興味深い考察だと思う。

君は、この冬に君が見た雪山の写真を見せてくれた。この山を眺めながら、君は、それがこの人生において最初で最後なのであり、二度と見ることはないのだという感覚に圧倒された、と言った。その味わい深い、されど寂しい実感が君の目元を雲らせていた。時間は、人間が持てるもっとも貴重な所有物だ、とも君は言った。だからひとつひとつの思い出が大切なのだ、と。

いつしか君は愛の話をした。人間にとってもっとも尊い感情である愛について。君は、事故で植物人間になった人間をぼくらは愛せるのかどうか、問うた。そして、人間の愛情の中でもっとも深い愛情は母親の愛情であり、その愛情すら、破壊されうる、と語った。無条件の愛は人間の間には存在しない、とも。ぼくはなぜか、君の苦しみを聞いているように思った。

君は、人工知能と感情操作の最先端を行く分野で、新事業を開拓しようとしている。だからこそ、君はその分野にいる他の事業家や研究者たちのマインドを知っている。そして、彼らの知や技術が、いかに人間にとって破壊的なものに発展しうるかを知っている。だからこそ、君にとって、人工知能の可能性は限りなく魅力的でありながら、とてつもなく恐ろしいものでもある。思うに、君は、自己の意識の自由を勝ち取るために、家族の敬虔主義を始め、若い頃から数々の戦いを戦ってきた百戦錬磨の闘士だ。君は、闘い勝ち取ったその尊い知性と意識が(君に言わせれば今のところ)死によって限界づけられていること、あるいは実体のないシミュレーションとして、無に等しい存在である蓋然性を認め、苦しんでいるのだと思う。意識のない植物人間の身体は、もしかすると君の一番の恐れを象徴しているのかもしれない。

ぼくは、君の話はイデオロギー的だと感じていた。そして、いつしか君の前に座っていることを、窮屈に感じた。君はぼくがどう考えるかを尋ねながら、ぼくの回答を聞くことに興味がなかったと思う。だから、ぼくは君にこう言った。目の前にいる相手は、I-youの関係におかれたyouだ。I-itの関係におかれたitではない、と。そして、ぼくの言いたいことを伝えるために、こう説明した。君は、見知らぬ人に微笑みかけられて、その瞬間に自分の存在を稲妻に照らし出されるように実感したことはないか。その人は君をしらないし、君が何を信じているかも知らない。けれどもその人は君を見た。そして微笑んだ。その人は、君に、君の存在を認めたことを知らせることで君の存在を実感させ、実在感覚を贈ってくれたのだ、と。

午後、夕暮れ前の日の光の中で、ぼくは息子とサッカーをしながら、君との会話の余韻を心に探っていた。その時、柔らかな風がぼくののど元を撫でていった。ぼくはそのとき、言い知れない快感を覚え、恍惚となった。まるで春風だった。そのとき、ぼくは、この現在の感覚が、現在という時間に閉じ込められたものではないことをはっきり悟った。ぼくの感じた快楽の中には、ぼくがこれまでの46年間の人生の中で、何度も感じてきたであろうかぜのやわらかさの喜び、春の予感の喜びが、すべて含まれていたからだ。ぼくの見るもの、聞くもの、感じるものの下に、何層もの過去の記憶が横たわっている。過去の経験が現在の経験と一体になっていること。現在は、つねに過去の引用でもあること。

ボールがフェンスを越えてしまい、息子がそれを拾いに行った。高いフェンスの向こうから、こちらへボールを投げてくる。1度目は、ボールがフェンスにあたって地面に落ちた。そのボールを拾って、もう一度フェンス越しにこちらに投げようとする息子に、ぼくはこう言った。ボールが、フェンスの上をやすやすと越えて、こちらに落下する様子を思い浮かべてごらん。想像できたら、その通りに投げてごらん。ボールはきれいなカーブを描いて、フェンスを越え、待ち構えるぼくの両手に落ちた。

ぼくらは、今現在という時間を生きているけれど、このように、ある意味で未来を先取りして生きている。ぼくらは未来を想像しながら、生きている。そして、その想像力が現在に生きてくる。ぼくらは、現在に閉じ込められてはいない。過去にも、未来にもつねにつながっている。

では、それは意識においてだけなのだろうか?

ぼくの好きなドイツ語に、wirken がある。働きかける、とか作用する、と訳される。ぼくが今日、こういう人間になっているのには、両親を初めてとする多くの人の作用があった。特に愛情に発する作用が、ぼくのこころを形成した。保育園の先生。名前も、顔も覚えてない。でも、ぼくに多く働きかけ、ぼくのからだとこころを養ってくれた人々はたくさんいるに違いない。そして、両親、家族、先生達、友人達、かれらの両親や祖父母、そしてさらにその先のひとびと。膨大な作用の結節点としての自分。そこから後代へ、他者へ作用が続いてゆく、中継点としての自分。

ぼくは、自分も wirken したいと思っている。自分が作っているプロジェクトや仕事や、私生活において、「作用したい」と思っている。何事かを「もたらしたい」のだ。何か良い「働きかけ」を行いたいのだ。ぼくが何かよい作用をしたら、それは、水面のさざ波のように、ちいさなものであっても、遠くへ遠くへ伝わっていくだろう。ぼくのちいさな個体の生命を越えて、ぼくのとても限られた意識を越えて。

ぼくらは、自分の意識に閉じ込められた存在ではないし、意識が途絶えても、そこでぼくらのこの世界とのつながりが終わるわけではない。ぼくらの身体が消滅し、意識が途絶えても、ぼくらの短い一生の間の「作用」はさざ波となって、どこまでも続いていくのだ。

君に、この喜びを伝えたいと思う。この世界の最初の人間の目にさしこんだ、最初の日の光。その作用は、今日も、光のさざ波となって、ぼくらに届き続けている。有限な存在を超えて、次のひとびとに渡してゆくものがある。この世の生が有限だからこそ。そのプレゼントは、途方もなく大きい。

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