見出し画像

海外で日本人の気持ちが分かってもらえないのはなぜか。気圧モデルで考える。

「親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかりしている」とは『坊ちゃん』の冒頭の有名な一文だが、こと日本そのものについては、次の形容がむしろ当てはまるように思う。

「歴代譲りの内弁慶で近代の頃から損ばかりしている」

国際会議に行くと、日本政府代表団はほとんど発言がないか、あっても極めて少ない場合が多く、とにかく一生懸命他国の発言メモをとって、あとは徹夜で内部報告書を作成しているパターンによく遭遇する。そして、仮にも発言する場合は、「ここで釘を刺しておかないと、A案を認めたとみなされてしまいますので反対しておきましょう」とか、「ここでちゃんとノーと言っておかないと、xxの拠出金を出させられる羽目になります」とか、ディフェンシブなスタンスである。どうしても必要に迫られたので発言する、というわけだ。そうでない会合もあるだろうが、全体的には会合そのものには消極的で、あたかも損をさせられることを恐れているような印象を受ける。会合を主宰する国際機関を、その重要な一員としてある方向にしっかり引っ張っていこうという気概を感じることは残念ながらまずない。政府代表の当人たちは、日本は政府を通じ常々国際社会に大変な貢献をしていて、世界中に感謝されている立派な国家だ、と思っている。多大な貢献をしていることも、立派なことも、本当にそうなのかもしれない。だが、そうは伝わっていないことが多い。

日本人が国際舞台でプレゼンスが低いのは、英語が下手だからだ、とよく言われる。そして、外国人に実際そのように思われている。しかし、日本政府の交渉担当官の英語力が低いということはない。プレゼンスが低いのは、英語力があっても、マインドが日本語のままだからである。その気になればとても流暢に英語らしく英語を話すのだが、実は日本語で英語を喋っているのだ。日本語で英語?それはこういうことだ。

日本語のコミュニケーションはマイナス気圧型

日本人は子供の頃から、まず相手を理解する能力を身につける。優秀な人間ほど、感度の高いアンテナを持った、相手の動機に関する高い分析力を持った人間である。一を聞いて、十を知る。周囲の複雑な空気の流れを自らの中に引き込み、それを無言で解析することに秀でているわけなので、気圧モデルで言えば、自らを負圧にするのである。能力観点だけでなく、道徳的にも、「負圧型」が推奨される。能ある鷹は爪を隠すし、口は災いのもとである。よく気がつき、よく察すること。そういう姿勢が評価される。子供の頃から、発言することよりも聞くこと、表現することよりも理解することを徹底的に訓練されているのが我々日本人だ。だから、どんなに流暢に英語が話せても、まずは聞き手に回っている段階で、すでにそれは日本語の会話モードなのである。

そういう気質なのか、言語使用の構造なのか?

気質と言語のどちらがどちらを基礎付けているのかは分からないが、互いに補強しあう関係になってはいるだろうと思う。言語使用の構造を見てみる。「駅前で久しぶりの先輩にばったり会っちゃってさ。ちょっと一軒行かない?って。いいかな」。これだけ読んで、日本人はだいたい想像がつくだろう。仕事帰りのサラリーマンが奥さんに電話をしている。これを、英語で奥さんに伝えようとしてみよう。その英語を直訳的に逆翻訳すると、次のようになるだろう。「ぼくは駅前で久しぶりの先輩にばったり遭遇した。そこでぼくは先輩から、一軒のみに行こうと誘われた。行くか行くまいか、ぼくは内心ちょっと迷ったけれど、ぼくはやっぱりいきたいと思う。君はそれを了承してくれるか?」という具合だろう。この二つの発言内容を比較してみよう。オリジナル版では、主語が省略されており、かつ主体の考えや判断が述べられていない。また受身的な表現になっている。自分が行きたいという意図は言わないのである。妻よ、推して測るべしというわけだ。日本語では、自ら何を欲するのかを言わないことが美徳であり、実は取りたい行動を受動型に持って行く方が相手に受け入れてもらえやすい、という特徴を持つ。逆に言えば、相手もそのように発言をするわけだから、相手の意図を汲まねばならない。「大学の時の友達にばったり会っちゃって!遅くならないから。ごめーん、今日は一人で食べて!」お互いさまだ。

お互い様だから機能する日本語の世界

自分が相手の意を汲み取るために、相手の赤裸々な願望を口にさせるような野暮はせず上手に理解するために、日本人は自らのマインドを負圧にする。言葉にされない部分が自分の脳内に流れ込むように。それでなぜコミュニケーションも人間関係も成り立つかといえば、相手もそうするからである。これはだが、あくまで日本人同士の世界、すなわち日本語内部の世界であることを知っておかねばならない。日本語の世界を一歩出れば、それまでのコミュニケーションの達人はとたんに内弁慶と化す。

風は気圧の山から谷へしか流れない

海外という場合、アジアもアフリカも中東もあるので、実は一概には言えないのだが、国際会議などの舞台でやりとりをする言語は大概英語である。筆者はドイツに住むので、ドイツ人と日本人の政治やビジネスシーンでの英語のやりとりをよく経験する。そこで何が起こるかというと、大概90%くらいはドイツ人側がしゃべっているのである。では日本人はおとなしく聞いているのかというと、そうではない。明らかに、もうその話は何度も聞いた、という表情を浮かべているし、足をイライラと揺らしたりしている。ドイツ人め、早く喋り終わらないかな、と思いながらノートをこれ見よがしにパタンと閉じたり、背筋を伸ばしてみたりしている。だが、ドイツ人側はそれに一向に構わない。無視しているのか?そうではない。日本人の「低圧式」仕草メッセージを理解する訓練を受けていないのである。ドイツ人同士のコミュニケーションは、相互負圧モデルでは全くない。気圧モデルでいえば、むしろ徹底した正圧モデルである。会話をしているドイツ人を観察してみるといい。双方、胸がプラス気圧に膨らんでいるのが見えるくらいだ。どちらも、相手との間に存在する発言空間をすかさず占めようと、言語ポンプを喉元まで全開にしている。相手のセンテンスが終わった瞬間にすかさず自分の空気を吹き込む。吹きすさぶ風の陣取り合戦である。友人同士でも、家族内の会話もそうである。ましてや政治、ビジネスシーンである。一方は育ちからして負圧モデル、他方は正圧モデルである。空気が一方向にしか流れないのは、自然の摂理のごとし、である。国際社会で日本人は気持ちが分かってもらえないのではない。分からせる術をわきまえていないだけなのだ。

日本人は海外でどうすればいいのか?

正圧のコミュニケーション術のトレーニングを受けるしかないと私は思う。そしてそれは、子供の頃から真逆のトレーニングしか受けてきていないわけだから、最初は非常に気分の悪い、嫌なトレーニングになるだろう。真空ポンプを、コンプレッサーモードで動かそうとするようなものだ。本能的にブレーカーが落ちる。そこを耐えるしかない。最初の拒絶反応をなんとか乗り越えると、今度はこの訓練の中で、自分がこれまでに受けてきた日本語世界の訓練を相対化できるようになるだろう。そしていずれ、海外の人間と、外国の政府代表やビジネスマンと対等に渡り合える醍醐味を味わえるようになるだろう。そこまでの道のりは長い。しかし、得るものはそれだけではない。日本人とは何か、日本語とはどういう言語か、日本語の世界というのがどういう世界なのかを、外から見ることができるようになる。自分はどういう風に訓練され、発展してきたのか。それが見えるようになってくる。相手と渡り合えるための血の滲むような訓練が、想像もしていなかったレベルでの自己理解という果実をももたらしてくれるのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?