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ドイツ語から見た、日本語における言葉の射程距離について

ドイツに暮らしていると、大人も子供も1日に話す言葉の量は日本の3倍は行くのではないかと思うことがある。そもそもより多くの会話をする文化であることもあるけれど、同じ1分あたりでも、そこに詰め込むセンテンスやワードの数が違う。これはドイツ語から日本語への同時通訳をする人は痛切に思い知るに違いない。聞き取った内容をコアとなるメッセージに切り詰めて要約していかないと、とてもついていけないだろうからだ。それほど、使用される言葉の数が多い。

それはなぜなのか。ドイツ語と深くつきあうにつれ、ぼくはドイツ語そのものの持つ「性格」を感じ取るようになった。これはドイツ語の一種の擬人化なわけだが、その基本的なマインドと性格はこういうものだと思う。

1. この世界に存在するものはすべて対象として認識されうる限り、必ず名前が付けられる。事象はすべて言葉で説明ができるし、しなければならない外部世界の物理的現象もそうだし、人間の精神やこころの内部で起こる現象もすべてそうだ(だからドイツ語で一番豊富で偉いのは名詞である)。
2. 力を尽くせば、この世界の事象・プロセス・メカニズムなどはすべて言葉で正確に写しとることができる。比喩的にいうならば、世界と、世界を記述した書物との両方がパラレルに存在している(後者はもちろんドイツ語で書かれている)。そして、世界記述システムが完璧であるならば、その記述システム内での象徴操作によって起こることは、リアルの世界でも起こると考えて差し支えない。(コンピューターシミュレーションを行って、現実世界における実験の代替とする感覚に近い。)
3. 言葉できちんと表現されないことがあるとすれば、その理由は三つしかない。知能レベルが低いか、怠け者か、隠し事をしているかである。いや、大声では言わないがもうひとつあって、外国人だ。

ちょっと不思議に思われるかもしれないが、ドイツ語では言語と対象の間には好きとか嫌いとかの心情は介在していない。映し出すものが何であろうと、赤面もしなければ顔を背けることもない鏡が、冷然と所狭しと吊るしてあるようなものだ。名詞に貴賎はないのである。

ここが日本語との最たる違いのひとつだと思う。日本語は、(ドイツ語から見ると)感情を抜きにすることはあり得ない言葉である。感情という場合、ひろく、暗黙知や社会関係意識を含む主観をぼくは念頭においている。「暗黙主観」が捉えていることは、言語化しない。「すみません、ちょっとお手洗いへ」という例をとってみよう。誰が行きたいかは明々白々だ。暗黙主観を伝えているのは、「すみません、ちょっとお手洗いへ」と言っている自分である。その場にいる、生身の私である。センテンスではない。ところがこれをドイツ語で言おうとする場合、「私は」と「行きたいのですが」を省くことはできない。状況に照らして分かりきっていることを、すべて言葉にせねばならないのがドイツ語である。さて今度はトイレから戻り、「紙がなかったんですよね」と言うか、「紙がありませんでした」というか、「紙ねーじゃねーかよ」というかで、相手との社会関係が判明するのが日本語だ。ドイツ語であれば、相手が夫であろうと、妻であろうと、大学の教授であろうとはたまた首相であろうと、言葉上のセンテンスは変わらない。声の出し方や口調は別として、センテンスは「事柄」を正確に語ることが使命である。だから当然、「紙が」では不足で、ちゃんと「トイレットペーパーが」と言わねばならない。

日本語はこれをくどく感じるのである。つまり、日本語の性格は「描写言語」ではなく、「暗示言語」、あるいは「状況言語」であると言っていい。日本語は、世界を模写し、それによって自らを世界の外側に置き、世界と同等の存在になろうとするのではなく、世界の中にとどまり続けるのである。ドイツ語のセンテンスが状況をすべて自らの要素に包摂し、状況を完全に「代弁」するのに対し、日本語では状況とセンテンスは補完関係に置かれる。日本語は世界という文脈から離脱しない。

ドイツ語を話すようになって、振り返って気がつくことがもう一つある。日本語は語尾・文末が必ずつく(わざと省略する場合は別として)。「懐かしい」「懐かしいです」「懐かしいね」「懐かしいよなあ」それぞれに、ニュアンスが異なる。相手にどれくらい同意を求めているのか、また相手がどれくらい自分に近いのか、はたまた遠いのか、といった主観的情報がコーディングされているのだ。これはドイツ語ではすっぽり抜けるといっていい。日本語においては、伝達したい「客観的事柄」よりも、話者同士の関係性の方が重要だと言えるかもしれない。ドイツ語が重視するのは前者である。

ここまで、センテンスレベルの記述や表現上の話をしてきたが、そもそも何を口にするのか、という点がまた全然違うのである。日本語の感覚であれば「そういうことは気恥ずかしくて言えないよ」「それを言ったらおしまいだろ」というようなことを、ドイツ語では堂々と言うのである。意見を対立させ、がんがん口論するなどは日常茶飯事であり、仲が良ければなおさら見方や考え方の違いを鮮明にし合う。黙って相手の感情を推し量ったり、会話における静けさの余韻を味わおうなどという感覚はかなり乏しい。いやはっきり言ってゼロである。沈黙はドイツ語にとっては最大の危機である。

上で見てきたように、日本語が主観性や感情を文尾にそっと織り込み、状況の共通認識を前提にして言語化せず、場合によっては沈黙によって心を通わせることを特徴とするならば、ドイツ語はその正反対である。ドイツ語にとっては、すべては言語化されるべきであり、感情ですら、「私は今あなたに対してかなり腹を立てています」とセンテンス化すべきものである。すなわち、逆説的だが、センテンスからは感情は排除されるのである。言語が感情を「写し取った」のだから、感情は感情記述にもはや置き換えられたのだ。(沈黙がドイツ語にとって危機を意味するのは、思考と感情の不在を示唆するからだ。言ってみれば「死の静寂」である。沈黙が支配する唯一の例外は、そこに相手に対する疑念や嫌悪、はたまた殺意が生じた場合だろうか。相手に殺意を抱く場合、さすがのドイツ人も「今私はあなたに殺意を覚えました」とは言わない。ドイツ語を話す者にとって、会話の際の一瞬の静けさが極めて不気味な印象を与える理由はもしかするとそこにあるのだろうかとふと思う。)

ここでそろそろ、本エッセイのタイトルに接近してみたい。ぼくのテーゼは、日本語は「言語の射程距離」が短い、ということである。状況を共有しているひと、同じ空間にいるひと、至近距離にいるひととのコミュニケーションは非常に効率性が高い。無駄なこと(共有している状況認識)は口にする必要がないからである。それはセンテンス上のことだけでなく、「いわずもがな」のセンテンス外のこともそうである。

逆にドイツ語は「射程距離が長い」。必要な情報はセンテンスにすべて含まれているため、相手は近くにいなくてもすべてを伝えることができる(少なくとも理念上)。

これが何を意味するのか。

ドイツ人とビジネスをすると、その効率性に驚くだろう。話が決まれば、何度も会う必要などない。これをやろうと合意したら、関係性確認のための定例対面儀式はほぼ不要である。感情の機微はそれほど重要ではないし、いまさらニュアンスなどどうでも良い。約束した協力関係をベースにした成果が出れば良い。始めに合意した相手に対する信頼は完全である。合意した上でなんどもなんども丁寧なメールのやりとりを重ねるのは時間が無駄だし、ちゃんと信頼関係を構築したんじゃなかったっけ?と逆に疑念を持たれる。しかも、それが9000キロメートル離れた相手であろうと、隣のビルの会社であろうと、大差ないのだ(問題は時差くらいである)。ドイツ語のセンテンスは身体的空間を超越するからである。同じ空間をシェアしないと伝わらないようなコミュニケーションではないからである。言語のデフォルト設計が空間を超越しているのだ。

ドイツ人が不思議に思うことのひとつが、日本人の「訪問時熱烈ハンドシェーク・帰国後雲隠れ術」である。ドイツに来た時はあんなに仲良くしましょう、協力しましょう、ぜひぜひ、と言って、予定ミーティング時間をはるかに超えてまで付き合わされたのに、日本に帰ってからはうんともすんとも連絡がない。日本語は、そこに相手の身体があるかないかで、内容が変わるだけでなく、死活がそこで決するのである。だから、ミーティング至上主義であり、東京一極集中である。ネットワーク時代に突入してからの労働生産性の低さはここにひとつの原因がある。

日本人はなぜハードウェアに強いのか。あるいは強かったのか。それは、ハードウェアは物体で、身体空間にあるモノだからだ。モノ優位の時代が日本人優位の時代だったのは当たり前である。説明よりもモノ、プレゼンより現場、ことばよりも触ってみること。日本人のモノに対する繊細な感性は、日本語のモノに対する謙虚な姿勢にその秘密があった。モノを決して代弁しないし、代替もしない。すべてはモノにはじまり、すべてはモノに帰っていく。ことばとモノで言えば、モノが優位。それが日本語の自己認識である。

「ソフトウェアが世界を喰らい尽くす」デジタル化は実は日本語とは正反対の世界観である。それは、世界を完璧に模写し、完璧な方程式によって完璧なシュミレーションを実現しようとする発想である。英語圏が進めてきた世界観だが、極めてドイツ語的である。この先、この世界におけるドイツ人の躍進に注意した方が良いだろう。ただし、ドイツ人が苦手なことがある。それは、ドイツ語の外の世界とのネットワーク作りだ。ドイツ語は、みずから閉じた系を作ろうとする。自己完結をデフォルトで望む言語アイデンティティである。イノベーションスピードにおいて、ドイツ語圏が英語圏に絶対に勝てないのは、英語圏は系が開かれているのに対し、ドイツ語圏は閉じられているからである。ドイツ語にとっては、言語の外部が存在しない。すなわち、ドイツ語の外部が存在しない。それがドイツ語の致命的弱点である。「ドイツ語イコール言語」というメンタリティの蹉跌だ。(ちなみにドイツ語のこのアスペルガー的なまでの世界包摂・自己完結傾向が英語やフランス語と異なって突出している理由は、植民地主義時代にドイツ人があまり身をもって外に出て行かなかったからである。アフリカや中国など例外はあったものの、ドイツは世界的植民地帝国にはならなかった。なっていれば、ドイツ語の外部を認めざるを得なかったであろう。そうではなく、文学的想像の中で世界を征服してしまったから、植民地の臣民はかわいくもドイツ語を話すわけだ。)

話がドイツ語の方にそれてしまった。日本語に戻そう。日本語は身体とモノが息づく具象世界において、具象世界とともに存在する言語であり、具象世界を浸透したり、置き換えたり、支配したりしたいと思わない。だから、ローカルに強い言語である。抽象化はあまり好きではない。具象の方が好きなのだ。それが日本語の特質であり、性格である。

「射程距離の短い」言語、日本語。射程距離が短いということは、身体やモノに近いということだ。だからこそ、モノづくり、ハードウェアで圧倒的な強さを誇り、日本製のモノが世界を席巻した。そして、モノは世界へ出て行ったが、日本語は外には出て行かなかった。日本のグローバリズムは、モノだけが外に出て行くグローバリズムだったのである。モノが外に出て行かなくなると、日本のグローバリズムは行き詰まった。

今、再考が求められている。大量製造・輸出特化型グローバリズムが終わった今、日本はどのような課題を抱えているのか。現代世界において射程距離の長い輸出製品や技術を持つ文化圏の真似をすべきなのか?ソフトウェアデベロッパーを大量に育成すべきなのか?皆が英語を使えるようにすべきなのか?

ぼくの意見はこうだ。日本語の特質はユニークだし、変わらない。ドイツ語の特質もユニークだし、変わらない。ドイツ人も、日本人も、自分の母語をよく使いこなし、さらにもうひとつ言語を身につけることだ。母語と同等のレベルに近づくくらいに。そうすると、自分の言語の特質がよく分かる。その長所と弱点がよく分かるようになる。弱点の部分は、別の言語の長所で埋め合わせれば良いのだ。

射程距離が長かろうと、短ろうといいではないか。武器はひとつと、誰が決めたのか。至近距離用と遠距離用と、ふたつ持っておこう。そうすると、案外、それらが武器ではなくなって、鍬と鋤になるかもしれない。まだだれも耕していない、広大な肥沃な大地がこの先の未来には広がっている可能性がある。

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