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ベルリンより、愛を込めて。1

東京からベルリンに移って半年ほどたった頃、Tagesspiegelというこちらの日刊新聞を読んで、記事をかたっぱしから日本語に訳して発信したいと思ったことがあった(まだFacebookもTwitterもない時代)。記事の内容そのものはたわいもないものだったと思う。僕が心を動かされたのは、文章の調子だった。なんとも軽快な語り口で、文語体が口語体に切り替わったかのような新鮮さがそこにあった。そこには、語っている口と声があった。ちょうど話す人の声の抑揚が感情を表すように、新聞の文体が、書き手の気持ちの動きを自由に伝えていた。

自由というのは、自分の心に忠実である、ということだ。しかし自分の心に忠実でも、その心を語ることができなかったら、それは自由なのだろうか?当時まだドイツ語に大変に不自由する中、僕がベルリンで発見した自由は、思考や想いが言葉になって息づく、その様だった。自分の当時の言葉の不自由さが、周りの人々のスラスラとした話し方に大きな自由さを、うらやましさと共に感じ取ったのだ、と言えるかも知れない。だが僕が感じ取っていた自由さの本質は、そこにあったのではなかった。

文章でも口語でも、そこに自由さが息づいているというのは、二つの連結が起きているときだ。一つは、自分の心や思考と、言葉との間の連結。自分の心と口との間の連結と言い換えてもいい 。きめ細かさ、親密さがその結びつきのクオリティを決める。もう一つは、自分と、自分の話を聞く相手との間の心の連結だ。自分の口と、他者の耳との間の連結と言い換えてもいい。ここでは、自分の心のオープンさと、相手の心のオープンさが、それぞれ口と耳のオープンさとして、その結びつきのクオリティを決める。

僕の心が僕自身の言葉にしっかり繋がっていて、そのように語られた言葉が相手の耳を通じて相手の心に届くとき、そこに大きな自由の実現がある。自分の心に無言に忠実であることを超えて、自分の心が相手の前に姿を現すことができた、と言えるからだ。そして、それを受けて、相手も胸襟を開き、自分の心に忠実な言葉を僕の目の前に紡ぎ出すならば、相手の存在が僕を自由にしてくれたように、僕もまた、相手の自由の実現を、産婆のように手伝ったのだ。互いに対して開かれた関係性の中に、自由の土台はあり、自分の心と自分の言葉との間の結びつきの密接さに、自由の媒体はある。

特にタブーな話題、困難でセンシティブなテーマを、互いの人生経験の異質さや、形成されてきた見方の違いを尊重しつつ、勇気を持って語り合うとき、僕は自由の大きな喜びを感じる。それをベルリンで最も深く感じたときの一つは、白人が圧倒的なマジョリティであるドイツ社会において、僕と同様にPeople of Color(「有色の人々」)である人たちと一緒に、意識的・無意識的を問わず存在する社会の差別構造の中で生きることの苦しみについて、互いに語り合うことができた時だった。

僕自身、第二次ベビーブーマーとして日本でおとこのことして育てられ、男子として学校に通い、オトコとして青春を謳歌し、男性として仕事意識を培い、父親として子供に接するという日々の中で、自分が心に傷を受けた経験やその痛み、他者に対する怖れや屈辱の経験については、自身の心の奥深くにしまい、滅多に口にしないという性癖を身につけていた。それは、男同士の会話において、悲しみや怒りを伴う屈辱の体験については、先の二つの連結が著しく困難になることを意味する。自分の意識が心の中の傷と繋がりにくい上、その痛みを相手に伝達するための心の橋もできていないのだ。

だからこそ、肌の色のトーンや顔立ちの特徴に違いはあっても、ドイツ社会において同じようにマイノリティの立場にある男性として、父親として、連れ合いや子供の目の前で屈辱を味わされた経験など、忘れがたい心の傷について、自分の言葉でそれを精力的に捉え返し、つぶさに縫い取り、同じように辛い谷間を通ってきた他の男性たち・父親たちとドイツ語で共有できたときの喜びと解放感は大きく、深かった。僕がベルリンの心の最も深いところに、その自由が湧き出す源に触れることができた経験の一つだ。

自分の心と口の連結、自分の口と人の耳の連結。言葉を介したこの二つの連結が断たれるとき、人は孤独になり、自由を失うのだろう。ベルリンという町は、この二つの連結を大切にし、そこに実現される自由を守り、それが奪われたときにはどれほどの年月がかかろうともそれを取り戻すことを宿命づけられた都市だ。1933年、ナチスによる政権掌握とそれ以降の独裁・恐怖政治を経験し、第二次大戦の中心地として灰塵に帰され、戦後は鉄筋コンクリート壁で分断され、社会主義圏側ではナチス時代よりもさらに巧妙化・徹底化された自由の弾圧が行われた都市。自由がいじめ抜かれ、破壊し尽くされた記憶を持つ歴史の舞台。そこから再出発し、思想信条の自由・表現の自由が保証されることで実現した「二つの連結」のリハビリテーションは、ベルリン再生の表現であり、担保でもある。
(つづく)




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