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ゼロであること

5歳の娘が昨日から咳をしているので、今朝、幼稚園を休ませた。上の小学校の子供達は普通に登校し、妻は職業訓練の実習に出かけた。食堂のテーブルにパソコンを開いて、仕事をする(つもりになる)。いつもではないが、在宅で仕事のできることのありがたさを思う。娘は絵を描いたり、僕に話かけたり。ぼくはもうとうに若くないので、話かけられると、それまで考えていたことを頭のメモリに素早く格納することができない。「見て」と色々な模様のバリエーションを幾つも描いたカードをぼくの前に並べている。「うん?」とそちらに顔を向けた瞬間、まずつらさを感じる。思考に戻った時はまた迷路なんだろうな、という予感がする。しおりを挟むのを忘れてパタンと本を閉じてしまったときのような徒労予感。午前中はそれの繰り返し。幾何学的には全く不正確な模様なのだが、よくもこんなにたくさんのパターンが次から次へと描けるものだ。

コックさんの職業研修施設が食堂になっていて、とても安く食べられるところが近くにある。ぼくらの通りに住む人々からカンティーネと呼ばれるこの研修食堂に、娘と手をつないでお昼を食べに行った。道中、娘がこんなことをぼくに聞く。「人間はどうして大きくなるの?」「こころの話かい、それとも体の話かい?」「からだ」「もしぼくが今の大きさの体で生まれてくるとしたら、おばあちゃんのお腹はとっても大きくなくちゃいけないね。」そう答えながら、人間が小さく生まれてきて、母親の胎の外で大きくなる自然のデザインの利口さに今更ながら感心する。

小さなにんじんスープと、鶏肉のハヤシライス(みたいなもの)を注文して、スプーンとフォークを二本づつトレーに載せて、会計を済ませる。二人で食べるのに十分な量だ。娘はスープばかり口に運んでいる。ごはんは?お肉好きじゃないの。私ベジタリアンよ。肉をおいしく感じないの。朝ごはんの時はサラミをパクパク食べていたような気がしたが、まあいい。ふーん。そうか。じゃあ、肉だけどけてあげる。しばらくして、娘がこういう。「それにね、動物がかわいそう」。きたぁと思う。反論はしない。うん、そうだな。分かるよ。大きなももの一切れを口に運びながら、ぼくは中学二年生だった頃の自分を思い出していた。学校の見学旅行で、屠殺場に行ったのだった。その信じがたい光景に、ぼくはその日夕食がのどを通らなかった。

もはや動物の身体を食べることに何も感じないし、言われてみて抽象的な気おくれ感をかすかに覚えるくらいだろうか。こころもからだも大きくなったぼくは大人で、フリーランスとして働きながら、もっと日本のひとびとの役に立つような事業をつくろうとぐだぐだやっている。ぼくはなんで起業なんてしようと思ったのか。それは、はっきり言って理想主義からだ。で、理想主義を胸に、コンセプトなんかを書いていた頃は、同時に地球の温暖化のこととか、肉の大量消費のこととか、いろんな国で起きている右傾化のこととか、戦争準備の不気味な気配とか、日本の少子化や地方の急速な高齢化や、四半世紀もデフレの続く日本の若い世代のひとたちの気持ちとか、いろんなことを考えていた。気がつくと、どうすれば最初のユーザーにお金を払ってもらえるか、どうすればパートナーと相互にメリットあるビジネスモデルを作れるか、を脳を空転させながら考え続けている。ユーザーを一人から三人に増やし、パートナーを増やし、売上を作ること。

ビジネスをつくろうと思ったら、それは当たり前のことだろう。だが、なんのための事業をやろうとしているのか。ゼロから一を目指す途上で、一から十をすでに掛け算しようとしている。そして、十にたどり着いたら、百を、千を考えているの違いない。そのとき、ぼくはもう完全に頭の使い方がビジネスモードで、それで突っ走っていくのだろうか。満足するユーザーを増やし、成長を追い求め、競合を競り落とし、というお決まりの道を歩むのだろうか。しかも、そんなのは、うまくいっての話で、そうならない可能性の方がぜんぜん高いじゃないか。成功のせの字、ひらがなひとつも書けずに、成功したらどうしようなんて、愚かすぎる悩みだな。

だがぼくは、この5歳の娘の存在の重要性に気づいた。ぼくのこころにとって娘が大事だというわかりきった話ではなくて、もう少し先の、ぼくの生き方、ぼくの事業の作り方にとって、ということだ。風邪で幼稚園に行かず、在宅作業中のぼくの思考を何十回となく中断してくれた娘。何で人間はからだが大きくなるのかと真面目に聞いた娘。そして、本物の動物の肉を食べていることを、意識させた娘。もういろんな物事を感じたり、考えたりしなくなっている自分、感覚が鈍化し、成功という決まり切った価値に収斂するように、思考が単純化しつつある自分。この娘は、ぼくの事業のエコシステムの非常に大事な一部である、とはたと思い当たった。ぼくは人間のための事業がしたい。人間のそもそもの姿や、発展、成長、変化。そういうことを考えなくなり、忘れてしまったビジネスになったら、そもそも何の理想を感じて起業などしようとしたのか、全くわからないではないか。

今、ぼくはゼロから一の途上にいる。正確に言えば、一がまだないのだから、ゼロだ。一に行こうとしているゼロの地点だ。一にたどり着く前に、考えておくべきことがたくさんある。仮にだが、幸運にも一になったとする。その時点で、全ての自然数がそのルールに従って運動をし始める、大人のよく知っているあのダイナミズムに必ず巻き込まれるだろう。マネーの力学。しかしその「大人」のダイナミズムは、ぼくらの世界の様々な深刻な問題を解決していない。解決するめどすらなんら立っていない。今僕らが「これが世界のルールだ」と思っているものは、もしかするとイマジネーション不足なのではないか?そして結果的に若い次世代の希望を奪っているのではないか。何か、これまでとは違うルール、違うデザイン、違うダイナミズムはあり得ないのか。探ってみたっていいだろう?

ゼロに立っていること。それを、ぼくはこれまで、認めるのもイヤな、なんとも格好の悪い、才能のないことを証明する地点としか感じてこなかった。5歳の娘と半日を過ごして、ぼくは、このうんざりするようなゼロの地点にはもしかすると意味があるのではないか、と思えてきた。もしかすると、これまで想像していなかったような新しいエコシステムの萌芽みたいなものがここにあるのかも知れない。カンティーネのある、(ぼくのような)移民とその子供の多い、ベルリン・クロイツベルク発らしい日本想いのエコシステム。ゼロは苦しいし、正直愚かなんじゃないかとも思う。日本想いといったって、独りよがりで相手にもされない。しかもぼくには才能はないし、思考を中断してくれる子供には事欠かない。だからこそ、やるのだ。


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