世界の微妙なバランスについて

この間、今のきな臭い情勢について、同世代のやはりベルリンに住む知り合いと言葉を交わした。開口一番、彼は僕にこう言った。「君はドイツ観念論者だね」。そして、世界を短く解説してくれた。「いいかい、世界は微妙なバランスの上に成り立って来た。それが今崩れかけているんだよ」。僕はそういうバランスこそが世界の平和の基盤だとは信じていないので、米国が日本の安全を保障するというのは一種の迷信じゃないか、と言った。むしろ戦争に巻き込まれる危険があるんじゃないのか、と。「今のロシアの状況とか、ちゃんと勉強してる?議論しても意味ないから。気分が悪くなるだけだからやめよう」。僕とあまりに意見が異なることを苦痛に感じたのか、彼は行ってしまった(ちなみに僕は、意見が異なることは何ら苦痛ではない)。

自称リアリストと、今ここにない何かについて語る人と、噛み合う話し合いをするのは確かに難しい。それはなぜかというと、前者は過去からくる現在を見ていて(と言ってもどれほど過去を遡っているかは分からない)、現在を固定された枠組みとかシステムで捉えがちで、仮に未来を考えるとしても、それは過去から現在に引っ張った「線」の点線トラジェクトリーとしてしか見ないからだ。後者は、自分の力で何かを変えることができると信じている。前者から見るとまことにおめでたい、現実を知らない夢想家に見えるに違いない。逆に、起業家や改革者から見ると、前者は頭が良さそうに見えるけれど、「批評家」なだけで何も行動しないゾンビに見えたりする。

僕はひとりの人間の中には両方いると思っている。個人差はあるだろうけれど、人生の前半では「未来の可能性は無限であり、未来は自分で作る」という心意気が、現在の世の中の複雑怪奇な仕組みを理解しようとじっと座っている読書姿勢を崩しがちだ。日本の場合、それは受験勉強の姿勢で、受験勉強はなぜやるかといえば既存のシステムの中で上昇するためだ。それは仕組みからして「リアリスト」育成のための矯正装置である。人生の半ばから後半になると、この、ビジョンを描き、行動するエネルギーが、順応や諦めに抑え込まれていく。そういうエネルギーや行動が、今やっと自分が手にしている「獲得物」をむしろ損ねてしまう危険性に思いを馳せるようになる。これが、保守である。

若者に対しては、常に年上のたくさんのリアリストや保守派がいて(しかもこれが今の世の中ではソウソウたる人々だったりするわけだ)、「そんな愚かな夢想は捨てて、まずは勉強しろ」とか、「デモなんかやっても世の中は変わるわけがないから、もっと真面目に自分の将来を考えなさい」ということを必ず言うので、「今すぐ全てを!」とはやる気持ちはブレーキをかけられる。それで、一応歴史を勉強して見たり、国連の仕組みの解説書を紐解いたりもする。上り坂をゼイゼイ一生懸命走っていると、ただでさえ心臓が苦しいのだけれど、「ほら、重力というものがあるんだよ」と諭してくれる人がいる。バランスは嫌でも取らされる。

では諦観・達観したリアリストはどうバランスをとるのか。若者は、わざわざ、「おじさん、もう少し夢を持ちましょう」とか、「おばさん、嘆いてないで元気だそう」とか言ってはこない。だからリアリストの傾きは修正されない。一旦下り坂を転がり始めると、やっぱり重力なんだよ、俺は正しかった、とますます納得しながらまっしぐらに老いていく。

もし僕が若者なら、僕は老獪なリアリストを「ちきしょうめ」と思いながらありがたくその話を聞くだろう。いつか見返してやるぞと心に誓いながら、ちゃんと反論できるだけの知識を備えようと勉強する。だが僕は人生の後半にいる。だから、僕は「リアリスト」の側につかないのだ。むしろプリンシプルとして、若者と、彼らの夢想を応援する側につく。じゃないと、バランスが崩れるからだ。もしかすると、生きている人間であるということについては、僕の方がリアリストで、保守なのかも知れない、と感じる瞬間である。

もちろん、心臓の苦しさは変わらない。いや、若くないぶん、もっと苦しい。でも鼓動をやめてもらっては困るのだ。

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