見出し画像

空気は吸え

ここ数年(これも数年ごしかい)「うっ」と言葉を堰きとめるシーン、言いたいことを言ってない様子をいちいち観察してきた。

たぶん、

空気を読むと世界が歪む。

とくにこの国の文化的な特徴だけど、「自分がどうしたいか」の地位がめちゃくちゃ低い。場や相手との関係が嫌な雰囲気になるなら「黙っていた方がいいこと」に分類される。
わたしたちは、それぞれが幸せであるように日々暮らしを育てているのに、要望が隠されている。そして居るのか居ないのかわかんない被害者を守るための改善が行われる。居るのかわかんない敵と戦うためにも。

偉い人には特に、「自分がどうしたいか」なんて言えない。偉い人は思う「聞いたことは全部取り入れたぞ、安心せい」自分に入ってくる情報は、通常より偏りやすいことに気がつけない。

だいじなことを「やっちゃいけない習慣」がある。堪えちゃいかんのだと思う。「こうだといいな」「それはいやだな」伝えなきゃわからん。場なんか乱れても慣れればすぐ戻るようになる。封印してきたからコミュニケーションが下手なだけだと思う。私たちはみんな違う。思いもしない感性との出会いは本来楽しいもんだ。いろんなタイプの人が知り合って調整して幸せになっていく作業は伝え合わないとできない。

でも、「誰かが被害を被ってるのを助ける」は、とても地位が高いので被害者が架空であってもぎゃんぎゃんと主張される。自分のことでなければ、饒舌で猛烈に燃える。それも「言えないのだろう」と空気を読んで。

この世界は、誰ももれなく「あなたがわたしが幸せであるため」に存在していると私は思う。個人の「こうしたい」がどうでもいいわけがない。みんなの「いま」が大切に決まっている。それぞれが自分の暮らしの中で素直に今を生きるだけで世界は修正されていくんだと思う。環境によってやりたいこと出来ること出来ないことがあって、それがそのまま暮らしを幸せにする調整に反映されていく。そのまま、素のままが暮らしを育てる貴重な情報だから、無理は、とても少なくなる。

私は、個人がちっちゃいとはちっとも思わない。全てを構成する欠かせない唯一と思う。余談だけど、個人のこと、自分でちっちゃいちっちゃい言い過ぎと思う。刷り込まれる。

世界中の「わたしのしあわせ」がこの世界のしあわせをつくる。世界の平和のために、くれぐれも空気は読んだりしないで、吸って欲しいと思う。

描く行為が好物、つくることが快楽。境界線なくイラストを提供したくなる病。難しいお話をやさしく描くのも得意。生きることすべてを描きデザインする。旅をして出会って描きたいつくりたい。だからサポートは大歓迎です。 ( ・◇・)ノ