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【紫陽花と太陽・中】第八話 伝書鳩

 僕が仕事から帰宅すると、ついこの前一人暮らしをするために引っ越しをした梨枝りえ姉が、いつも通り自宅にいたので驚いた。
 ダイニングテーブルで梨枝姉と桐華とうか姉、そしてひろまささんが座って話をしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「あぁ、おかえり」
「あは、驚いた顔してるね。もうすぐ帰るところ。ちょっと相談したくて寄ったのよ」
 梨枝姉が笑って言った。どうやら泊まるつもりはないらしい。
「あずささんは?」
 あずささんの姿が見えず心配だったので、尋ねた。疲れて先に寝ているとのことだったので、シャワーを浴びてこようとまずは自分の部屋着と下着を準備した。衣類は部屋にあるのであずささんを起こさないよう細心の注意を払って取りに行く。
 一時期、一緒の部屋で寝起きを共にするのはやめようと僕がリビングのソファで寝ていたこともあったが、いろいろあって、今はまたあずささんと一緒に寝ている。すぅすぅと柔らかな寝息をたてているあずささんをあまり見ないようにしながら、僕はそっと部屋を出た。


 梨枝姉は今年の四月から、一人暮らしをすることになった。仕事の都合で異動があり、勤務先が遠くなったせいで毎日自宅から通うのが難しくなったからだった。
「急な話だったからバタバタしちゃったけど、引っ越しも間に合いそうで良かったわ」
 桐華姉が荷造りを手伝いながらケラケラと笑う。
 実際は手伝うといっても箱の蓋にガムテープを貼っていくくらいのものだったが。
 姉はお腹に赤ちゃんがいるので急に具合が悪くなることがある。箱詰めしたダンボールに嘔吐でもされたらたまらないので、僕はせっせと梨枝姉のダンボール箱をあっちこっちへと移動していた。
 あらかた準備も終わり休憩をしている時に、僕はこっそり梨枝姉に聞いてみた。
「こんな急な話だったのに、よく桐華姉は怒ったりしなかったね」
「そうねぇ」
「僕が仕事する時はあんなに猛反対したのに……。なんか、ずるい」
 僕がこぼすと、梨枝姉はゆったりと微笑んで言った。
遼介りょうすけは、正直で、真面目なのよね」
 梨枝姉の言葉にキョトンとした。
「大人ってね、けっこうずる賢いのよ。根回しとか、するんだから」
「ネマワシ?」
 聞き慣れない言葉に、頭にハテナマークが浮かんだ。
「私ね、桐華さんが驚かないように、毎年毎年この時期に、もしかしたら異動になって引っ越しをするかもしれない、って言ってあったのよ」
「へぇ」
「引っ越しする場所まではさすがに予想できないから、それは分からないって言ってあった。引っ越した後はどれくらいの頻度でこっちに顔を出せば安心するかどうか、前もって聞いたりもしたわ」
「うん」
「そうするとね、桐華さんも心づもりができるから、今回みたいに急に話をしても驚かないの。反対されないの。まぁ仕事を辞めるとか海外に行くとかじゃなくて、たいした話じゃないのもあるけどね」
 梨枝姉は人差し指を口元に当てて、声を潜めて続ける。
「桐華さんが怒るのはね、自分のペースが乱される時が一番大きいかもしれないわ。いつも同じ、安定を好む性格だから。急なことには対応しにくいのかもしれない。幼稚園の先生なのにね。……遼介の時にあんなに怒ったのは、桐華さんがまるで予想していないことを遼介がやろうと思ったからなのよ。自分と同じ進路と同じように進んでいればある程度の予想がつく。予想できないことは、不安になる。不安だから、どうしていいか分からなくて、怒るのよ」
 普段、梨枝姉は桐華姉ほどよくしゃべらない。軽いフットワークで臨機応変に黙々と雑用をこなすタイプだ。仕事で家にいない時間が多いので家事はあまりしないのだが、たまの旅行の時などには宿泊手続きやら行き先への道案内など、ちゃっちゃっとやってのけてしまう。
 僕より桐華姉と長く一緒にいたからか。桐華姉への評価が的を得ており、上手に接している感じがすごいと思うし、ずるいと思った。


「父さんの、一周忌?」
 僕がシャワーから出てくると、法事の話をされた。
 ……忘れていたけど、父さんが死んだのは去年の話なのか。いつの間にか時間が経っていたことに愕然とした。この一年、ものすごいことが立て続けに起きて(バイトを始めたり退学したり仕事に専念したのは自分で選んだことなのだが)、さらにあずささんの事件まであったので頭からすっかり抜け落ちていた。
「一周忌をする日は下旬のこの日。あんた、お店も定休日でしょ?」
 壁に貼ってあるカレンダーを見た。仕事中の休憩もそこそこに、病院や店や私用にと多忙を極める縁田えんださんも、さすがに週に一度は休まないといけない。店は日曜日が定休日になっている。
「悪いけど……その日は……」
 僕は渋った。あずささんの気持ちを考えると、とても法事なんてしていられないと思った。
 緊急避妊薬を飲んでから一ヶ月経ち、生理が再開しないと避妊が成功しているかどうかは分からない。姉の指定した日付はまだ一ヶ月経っていない。不安が押し寄せる中あずささんに法事に参加してくれとは、僕には言えそうにない。
 唇を噛みしめる。
 姉は、あずささんが今も毎日不安と闘っていることを、知らないのだ。
 高校二年生に進級し、学校に通っているから立ち直ったのだと、そう思っているのだ。

 ◇

 新しい教室、新しいクラスメイト。二年生になってクラス替えがあった。
 俺は五十嵐いがらしの「い」の苗字のせいで、出席番号が一番になった。教師との距離が近いと何かとめんどくさい。一番後ろの席が気楽で良かったが、世の中うまくいかないもんだな。あ、他にもクラスの奴らが出入口からぞろぞろとやってきた。どうやら二年生はあずさと同じクラスになったようだ。
 相変わらず仏頂面のあずさが、俺が教室にいるのに気付いて少し驚いた顔をした。

「話がある」
 久しぶりに会ったあずさはとても固い表情をしていた。唇を一文字に引き締めて、険しい視線で俺を呼んだ。なんだか決闘でもするみたいだ。

 珍しく、屋上がいいとあずさが言った。普段自分の希望を言わない奴なので、少し驚いた。
 屋上は風がびゅうびゅう吹き荒れていた。違うところにするか? と提案したが、どうしてもここがいいらしい。俺は諦めて、屋上の出入口の段差に腰掛けた。
「どうした? またいつもの遼介の近況報告か?」
 あずさは時折、遼介の最近の話をする。高校が別になった俺と遼介が疎遠にならないようにするための配慮なのか、突然俺を呼び出し、近況を報告する。
 あずさは俺の目の前で、両足を肩幅に広げて突っ立っている。
「今から言う話は、つよしにしか頼めない」
「ほぅ」
「あまり人に聞かれたくはないのでここで話すことにした」
「ほぅ」
 あずさが一回深く呼吸をして、しっかりとした声で言った。
「この前の春休みに、私はレイプに遭った」

 俺とあずさの間に、強く風が吹いている。
 ……今、なんて言った?
 あずさは続けた。
「三月下旬、私は被害に遭った。病院に行って、処置をした。痛いし、辛かった。病院へは救急車で行った。救急車を呼んだのは遼介だ」
「あ、あぁ……」
「私は、一人でどうにかしようと思った。とりあえず逃げて自宅まで来たが、どうしたらいいかちっとも頭が回らなくて怖かった。怖すぎて、本当は連絡などしたくはなかったのに、遼介に電話をしてしまった」
「すぐ助けに来たのか」
「分からない。時間の感覚がなかったから。でも遼介は来た。それで救急車で病院に連れて行ってくれたり、家族にきちんと説明もしてくれた」
「そうか……」
 ずっと俯いていたあずさが、俺に視線をずらした。目が合った。何を考えているのかちっとも分からない。
「今の私は、もしかしたら妊娠しているかもしれない。していないかもしれない。それは、まだ、分からない」
 俺は驚愕した。
「私が何をされたのか聡い剛なら分かるはずだ。それはいい。剛が私をどんな目で見ようが、私には何も関係がない」
「いや……俺は別に」
 つい、俺は目を逸らしてしまった。一瞬あずさの腰回りを見てしまった気がしたからだ。
「私は、自分を被害者面して同情してもらうために、剛に話しているわけではない。もう終わったのだ。全て過去のことだ。今更何も変わらない」
「……だから?」
「……だから、私が言いたいのは、遼介の相談に乗ってくれということだ……」
 あずさの声がか細くなった。まさか泣いているのか、と思わずあずさを見やった。泣いてはいなかった。顔を歪めたままあずさは続ける。
「遼介は、きっと誰にも話さない。私のことも、これからどうすればいいのかという気持ちも、誰にも話さず自分で抱えてしまう。私が、遼介に助けを求めてしまったから。ひどい有り様を遼介にだけ見せてしまった。私が遼介を巻き込んだ」
「泣くなよ」
「泣いてなどいない! ……やはり、普通の人は泣きそうな人に向かって、泣くなというのだな。遼介は言わなかった。私にいくらでも泣いていいと言ってくれた。それなのに遼介はもう泣かない。昔はあんなにわんわん泣いていたのに。……自分の気持ちに蓋をして、ずっと微笑むだけになってしまった。遼介を、あんなに優しい遼介をこんな風にしてしまったのは私のせいだ……」
 風があずさの長い黒髪を、容赦なく、ぐちゃぐちゃに乱していく。
「今までは椿つばきちゃんのことやどうしたら忘れ物をしないかといった相談を、私が受けてきた。本を読んだり保育園の先生に聞いたりして、二人で解決しようとしてきた。……でも、今度の話はそうではない。誰にも言えない、私にも言えない。遼介は、ずっとずっと一人で抱え込んでしまっている。……だから、剛。剛が話を聞いてあげてほしい。たとえ遼介が全然悩んでいなくても、言いたかったことが何かあるかもしれない」
「家族は? 姉貴には、相談している様子はねぇのかよ」
「……桐華さんは、あまり、遼介に寄り添っていない感じがするのだ。なぜだろうか。血の繋がった家族であっても、気持ちは同じではないということか。遼介が退学をして仕事をやりたいと言った時に、桐華さんと遼介はぶつかった。口論に近かった。……遼介が、桐華さんと腹を割って話す……というのは、想像することが難しい……」
「そうなのか……」
「でも、そういうことも、私の勝手な想像でしかない。遼介に聞けたらいいのだが……。もう、私が遼介に何かを言えば、全部困らせてしまうと思うから……。言えないのだ」
 最後の方はもはや消え入りそうな声になっている。
 この前遼介と会ったのは一体いつだろうか。本当に、こんなにも生活スタイルが違うと奴がものすごく遠く感じる。ここまで疎遠になるとは思っていなかった。
「分かった」
 俺はゆっくりと立ち上がった。あずさが俺を見上げた。いつも長い黒髪で隠れているあずさの首がちらりと見え、少し痩せたのに気が付いた。
「遼介に会ってくる」
「頼む」
 俺の前では笑わないあずさが、少しだけホッとしたような顔で短く呟いた。

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