【紫陽花と太陽・中】第九話 遺言付きの写真
縁田さんから相談された。もう一人採用してみようと。
僕は、今ちょうど休憩を取っていて、キッチンに併設されているカウンターテーブルで縁田さんと向かい合ってサンドイッチを食べていた。
どうしてここで休憩をしているかというと、この店には店長の縁田さんと、ホールスタッフの僕しかいない店だからだ。僕が休憩している時に急にお客さんがワッと来て混んだり、電話とお会計が重なってしまったりした時に、僕が二階の控室にいたのでは店が成り立たない。
「もう一人⁉︎」
僕はちょっと驚いて声を上げた。縁田さんがニヤリと笑って言った。
「そう、もう一人雇ってみようかなと。そうしないとさ、遼くん、いつまでも休憩なのに休憩できていない状態で、やっていくことになっちまうからさ」
スタッフが二名いれば、交代でしっかりと休憩を取ることができるということらしい。
「縁田さんも休憩をあまりしてないじゃないですか。僕だけしっかり休憩を取るのは、不公平じゃないですか?」
チッチッチと、縁田さんはシワのある人差し指を振った。
「俺は店長で個人事業主ってやつなのさ。ヌシは休憩してもしなくてもいいんだよ。でも遼くんは雇われている。社員なの。社員は日本の厳しい働くルールで『休憩を取る権利がある』ってなってるの。だから、ヌシは自分を犠牲にしてでも社員をしっかり休ませなきゃいけないのさ」
「へぇ」
「ヌシは休めないが社員は休める。いいねぇーっ 羨ましいーっ!」
僕がどうツッコんでいいか微妙な顔をしていると、縁田さんは急に真面目な顔になって言った。
「遼くん、労働基準法ってのがあるんだけど、ゆくゆくは知っておいてね。じゃないと、悪い社長さんに良いようにコキ使われて疲れ果ててボロ雑巾みたくなって、それであっさり捨てられるから」
「ええぇ……」
「今は遼くんは若いから、体力もやる気もあるからどうにかなってるけど。休むことは大事だよ。ずっと同じ調子で働けないから。無理をして頑張っても倒れたらおしまいだ。遼くんが倒れてまず心配するのは……あずさちゃんだろ? あずさちゃんのためにも遼くんは無理しないってことをしていかないとね」
僕は押し黙った。あずささんを心配させないように、っていうのは殺し文句だ。絶対に頷くしかないじゃないか。
というわけで、新しいスタッフを雇うために僕は「急募!」の求人募集ポスターを作ることになった。
「いくらなんでも汚すぎでしょ、何この字」
自宅でポスターを作るべくまずは下書きを書いてみたところ、桐華姉からさっそくひどい感想が述べられた。
「下書きなんだから、いいんだよ」
ポスター、というものは今までにだって目にしてきたはずなのに、いざ自分がゼロから作ろうとすると、どうしてかアイディアが全く出てこない。鉛筆を指でくるくると回しながらウンウン唸っていると、椿まで様子を見にやって来た。
「椿、牛乳は絶対にこぼさないでよ」
「?」
僕の言葉に椿はキョトンとする。昔、宿題のプリントをやろうとするたびに、椿に何か飲み物をぶちまけられた記憶が蘇ったのだ。
「お兄ちゃん、それ、しゅくだい?」
「そう、宿題」
「がっこうないのにしゅくだいあるんだねぇ」
「う……そうだね」
だめだ、全然アイディアが浮かんでこない。
両手を上げて大きく伸びをして、後ろにのけぞったところ……僕の目の前にあずささんの顔が突然現れた。
「うわぁ!」
予想していなかったことに心臓がバクバクしてしまった。あずささんに「すまない……」と謝らせてしまった。
「遼介、スマホの検索で、何か似たポスターが見つかるのではないか?」
「スマホ⁉︎」
「そう、電話やメールをする以外にも、さくらたちはよく検索をしているぞ」
僕は携帯電話を不携帯ぎみなので、慌ててリュックサックまで走っていき、自分のスマホを取り出してきた。たどたどしく、スマホの画面を開いて検索でポスターを探してみる。
横からあずささんが控えめに画面を覗き込んできた。
……ち、近い。顔が近い……。
スマホは、先日ひろまささんと桐華姉と梨枝姉から、誕生日でも何でもないのに手渡された。僕とあずささん、それぞれに。色違いのスマホを。
あずささんがレイプされてしまった事件があってから、もしもの時に連絡がとれるようにしておいた方がいい、と姉たちの中で話がついたらしい。スマホを含め、携帯電話の契約は未成年だけではできない。……僕はこういった小さなことで、未成年であることの中途半端さに歯がゆい思いでいっぱいになる。
「急募、という単語も添えたほうがいいかもしれない」
「急募……っと。これでいいかな。……あ、いっぱい出てきた」
「何をポスターに書いたほうがいいのか、これで大体把握できるな。スマホというものは大変便利な機械だな」
あずささんが片手を頬に当ててため息をついた。
僕はあずささんの手首と腕をそっと見て、少し安心した。レイプがあってからというもの、しばらくの間あずささんはほとんど水と果物くらいしか口にしていなかったので、ものすごく痩せてしまったのだ。
今みたいに普通に話せるようになるまでに、だいぶかかった。ちゃんと目が合うまでにも、だいぶかかった。
細かった腕もちょっとずつふっくらとしてきたように見えた。触って確かめられたらいいのだけど、僕はもうあずささんには触れないよう気を付けている。本当は触れたい。腕に抱きしめたい。でももうそれは手の届かない遥か遠くの気持ちだから、僕はきっちりと蓋をする。
「ポスターが完成できる気がしてきた。あずささん、ありがとう。何か飲み物作るね」
「えっ? いや、でも、宿題をしなければならないのだろう?」
「飲んだら再開するよ。今は、ちょっと休憩」
「休憩か」
「うん。……ほうじ茶か、珈琲か、緑茶か」
僕は飲み物の名前をつらつらと言いながら、微笑んであずささんを凝視した。あずささんが僕の視線に気が付いて、キョトンとして、それから目を瞠った。どうやら分かってくれたみたいだ。
僕が、あずささんに『飲み物の希望を聞いている』ということに。
昔話ばかりだけど、あずささんは自分の希望を長いこと言うことができなかった。お店であずささんが注文する物は、たいてい僕と同じか椿と同じ。自動販売機の前では立ち尽くし、レジで注文を取るようなお店ではものすごく時間がかかってしまう。
それで、僕は事あるごとにあずささんと「自分で選んでもらう練習」をしてきた。
他の人と一緒の時は難しくても、僕と一緒の時ならいくらでも待つことができる。待つのは得意だ。椿の世話をするうちに、待つことは自分の精神を統一する修行の一つとして考えられるようになった。
「では……珈琲を」
「はい」
あずささんが控えめに希望を言ってくれた。それだけで、僕はすごく心が温かくなる。
昨日より今日の方がもっと美味しい珈琲を淹れよう。
僕は前を向く。過去も振り返るが、前をしっかりと向いて、今を大事にしたい。
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