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【紫陽花と太陽・中】第九話 遺言付きの写真[3]

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 数日後、ポスターは無事完成し、さっそくお店に貼られた。
 かといってすぐに応募が来るわけでもない。縁田さんと僕だけの「喫茶 紫陽花」の日常は、何事もなくゆるゆると続いていく。
 一度応募があり、それは僕よりだいぶ年上のおばさんだった。子供が中学生になり自分の時間ができたので応募しました、と言っていた。
 面接は縁田さんが単独で行った。僕はその場にはいたけれど、邪魔にならないようできるだけ静かにして後片付けをしていた。
 面接が終わりおばさんは帰っていった。
「どうしますか? さっきの方、採用するんですか?」
 尋ねると、縁田さんは即答した。
「しない」
「えっ? どうしてですか?」
 てっきり面接までしたのだから、僕の時みたいにすぐ採用を決めると思ったのだ。
「ムフフ、内緒。とにかく、さっきの方は採用はしないよ」
 僕は困惑した。でも縁田さんがそういうのだから、僕が口を出すことじゃない。僕は引き続き後片付けに専念した。

 その後も二名応募があり、それぞれ別日に面接をした。
 二人とも、結局、縁田さんは採用しなかった。

 お店の客入りは徐々に増えていっている。縁田さん曰く、僕が細やかな対応をするので人気が出てきたんだろうということだった。そんなばかな。
「遼くんの、すごいところはね。気遣いだね!」
「はぁ」
「信じてないね? 例えばだよ、さっきの親子連れでさ、子供用にサンドイッチを小さくするかどうか、わざわざ聞いてたよね」
「それは、まぁ、普通に作るサンドイッチの切り方だと、あれくらいの子には食べにくいかなぁって思って……」
「そういうところだよ。遼くんは子供のことをよく知っている。子供の年齢に合わせた提案ができるのがすごいってことだ。赤ちゃん連れには水の提供はしないだろ?」
「赤ちゃんは水はまだ飲めないでしょうし……。でもそれは、どこの店でもやっているんじゃないんですか?」
「パスタの生の小口葱のトッピングを抜くかどうか、普通は聞かないよ?」
「はぁ」
「熱いものをテーブルに置く時、子供から遠くに置いた後、熱いのでお子様に気を付けてくださいねと、一言添えるのもあまり聞かないね」
「よく見てますね」
「まだあるぞ。二人で来て一品しか注文しない時、言われなくても取皿を添える」
「はぁ」
「手を骨折かなんかして三角巾を腕に巻いている客に、ドレッシングの蓋をわざわざ開けて、こちらに置いておきますね、と言う」
「まぁ、骨折しているのにドレッシングの蓋を開けないといけないサラダを頼むのも珍しいな、とは内心思っていますよ」
 ガハハハ! と縁田さんは豪快に笑った。
「確かに、やっていること一つ一つは大したことじゃないかもしれない。でもね、どんなに小さかろうと、遼くんが目の前のお客さんのことをしっかり見て、ちょっと優しさを見せていくとね……。そういうのはお客さんは分かるし、伝わるから、やがて大きな力になって人が集まって来ると思うんだよね。でもって、遼くんをサポートできるような次に採用する人は、そんじゃそこらの人じゃ務まらないと思うんだ。……とか言うけどさ。ハードルばっかあげてると誰も採用なんてできなくなるもんなぁー! 俺、頭悪ぃー」
 縁田さんは頭のところで手をくるくると回して、それからパーと手を開いた。
 くるくる、パー? あぁ、なんて反応したらいいか分からない……!

 ◇

 俺が会計事務所から帰宅した時、リビングは真っ暗だった。代わりにダイニングテーブルとキッチンだけ明かりがついていて、おや、と不思議に思った。
「おかえりなさい、ひろまささん」
 控えめな声であずさちゃんが声をかけてきた。
 俺が、部屋を見回し桐華は寝てるのかと思ったら、
「桐華さんは、お食事の後少し起きていたんですが、具合が悪くなったとのことで今寝室で休んでいます」
 と、あずさちゃんが端的に俺の考えていることへの答えを言ってくれた。
 桐華は今、腹に子を抱えているので、急に具合が悪くなったりするのだ。
「ありがとう。それに今まで起きててくれて申し訳ないね」
「いいえ。では、ひろまささんのお食事を温め直してきますね」
 あずさちゃんはそう言って、台所に消えていった。
 俺はありがたくその間にシャワーを浴びに行く。途中で階段を下りてきた椿ちゃんとすれ違った。

 シャワーを浴びて帰ってくると、テーブルの上に俺だけの晩ごはんが温かい状態で盆に乗っていた。相変わらずの、下宿か旅館にいるようなフルサービスに感嘆する。
「あずさお姉ちゃん、シャワーあびた?」
「いや、まだだ。なのでこれから浴びてくるが……何かあったか?」
 椿ちゃんと話す時は、あずさちゃんは遼介くんと一緒の時のような話し方になる。男言葉を使うのは、たしか小さい頃は男として育てられてきた、と言っていた。
「お兄ちゃん、かえってくるの、おそいなぁとおもって」
 椿ちゃんが小首を傾げた。あずさちゃんが少し笑って答えた。
「遼介なら、もう帰ってきているぞ。そこのソファで寝ている」
「え? そうなの?」
 俺と椿ちゃんがソファを見ると、背もたれで隠れていたが、確かに遼介くんがすやすやと眠っていた。身体にはブランケットが掛けられている。
 あずさちゃんはシャワーを浴びに行った。椿ちゃんがソファに近寄って、遼介くんを眺めていた。
「ひげまじん」
 俺は微笑む。前につけたあだ名を、椿ちゃんはよほど気に入ったのか時々呼んでいる。
「遼介くん、このところ忙しくなってきたって言ってたもんな。疲れてるんだろうな」
「すっごいしあせそうなかおでねてる。……あれ? これ、なんだろう」
 椿ちゃんがソファの近くに落ちていた、使い込まれたメモ帳を拾い上げた。
「あぁ、それはたしか遼介くんが仕事で使っているメモ帳だな」
「そうなんだ」
 椿ちゃんが中を開いて、それからうげぇっと声をあげた。
「ど、どうしたんだい?」
「きったないじ! よめない!」
 そういえば桐華も前に遼介くんの字をボロクソに言っていたことを思い出した。
 俺は笑いながら飯を食い、テーブルに置いといてあげてね、と椿ちゃんに言った。

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