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【紫陽花と太陽・中】第九話 遺言付きの写真[2]

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 少し前、高校二年生の直前の春休み。あずささんはレイプされ、産婦人科で緊急避妊薬を飲んだ。
 それから地獄のような一ヶ月を経て、妊娠はしていないことが判明した。
 自宅のトイレで妊娠検査薬を使って調べるだけでは不安だったので、再度産婦人科に行って先生にも診てもらい、避妊が成功していると伝えられた時、あずささんはペタリと床に座り込んでしまった。
 診察は二回とも全額自己負担だった。あずささんは健康保険証がないからだ。義兄から逃げてきた際、そういうものも手放した。変更手続きをすれば、居場所がばれてしまうかもしれない。そう考えてあずささんは保険証を持たなかった。具合が悪くなってもかたくなに病院に行きたがらないのがずっと不思議だったけど、ようやく合点がいった。
 処置後で朦朧としていたあずささんに代わり、診察費は僕が出した。働くだけ働いてお金の使い道が全然なかったから給与がどんどん貯まっていく。財布に入っていた分で足りて良かったと思った。僕が仕事をしていた意味は、こういう時に心置きなく使うためかもしれないと思った。

 病院で避妊が成功したと言われた帰り道、僕たちはずっと無言だった。ふいに、ポツリとあずささんが呟いた。
「行ってみたいところがある……」
 僕は耳を疑った。行きたいところ、したいことがあるなら何だって手伝う、そう思った。
「ど、どこ……?」
「これなんだが……」
 あずささんは僕の問いに、カバンから折りたたんだチラシを出して見せてくれた。
 チラシには「女性に対する暴力のない社会をめざして 市民向けセミナー」とタイトルが書かれてあった。僕は目を瞠った。
「もっと早く、知識を仕入れるべきだった……」
 あずささんはそう言って、俯きながら歩いていた。
 今更知ってどうなるのだろう。今まで目に入ってこなかっただけで、いろんな場所でこういう情報を受け取れるイベントがあったのだろう。このチラシは産婦人科の受付の近くに置いてあったとあずささんは言っていた。
 それで、僕とあずささんはこのセミナーに参加してみることにした。

 当日、会場には女性しかいなかったように思う。女性限定と書かれていないか二度見したほどだ。居心地の悪さを感じながら、でも、椿の授業参観だって自分一人だけが未成年で十分目立ってしまっている。同じことだと腹をくくり、セミナーを受けた。
 参加者が何か意見を言わないといけないわけではなく、スライドショーを見て、どこかの大学の講師さんのお話を聞く、そういう内容だった。
 セミナーの内容はどれも胸をえぐる話ばかりだった。喉の奥が苦くて気持ち悪い。世の中の暗い汚い部分が見えて、気持ちが荒んでくる。あずささんが心配だった。記憶を蒸し返すようなことをしていると思ったからだ。

 講演が終わり、隣で一緒に聞いていたあずささんを見ると、案の定泣いていた。ハンカチを手渡し、背中をさすってあげたかったが僕にはもうできないと思って、様子を伺っていた。
 あずささんが落ち着くまで待ち、帰ろうと席を立った頃には、会場からはほとんど参加者が帰った後だった。出入口の方へ足を向け……ようとした時、あずささんは会場にいた一人の女性のところに、しっかりとした足取りで近づいていった。僕は驚いた。
 しばらくその女性とあずささんが話をし、ちらりと僕のことも見られた気がするが、やがてあずささんが僕のところに戻ってきた。
 今度こそ帰ることになったので、出入口を出て会場のエントランスをくぐり、外に出た。外の風がやけに爽やかに感じた。
「遼介」
 あずささんが空を見上げながら僕を呼んだ。
 何? と僕が返すと、あずささんは僕の方をしっかりと見つめ、言った。
「私、A大学へ進学をしようと思う」

 僕がたまたま縁田さんと出会ったように、あずささんはあの日、A大学の教授……セミナーの講師として講演をした女性と出会った。
 あのセミナーの目的は、未経験の人に広く情報を提示し、世の中にはこういうこともある、身近な人が被害を受けた時にどうするべきか、そして普段気を付けることはこういうことがありますよ、という注意喚起が強かったように思う。あずささんが何に興味を惹かれたのか……それは、大学教授である講師の女性が何を訴えたいのか知るため、もしその大学に進学したら何を勉強できるのかを知るためだったようだ。
 あずささんは言った。自分の過去は変えられないけれど、これから先、悲しいことが起こらないように子供たちに伝えることはできるかもしれない、と。経験したからこそ伝えられることがあるのではないか、と。それがどういう職業なのかは分からないから、講師の教授の元で勉強をして、子供たちに伝える最善の方法を探したい、と。
 そう言った。
 僕は泣きそうになった。
 いつだって、あずささんは自分のことは置いておいて、人のために何かしようと思うのだ。どんなに怖いことがあっても、辛いことがあっても、それを踏み台にして前を向く。次に進む。壁が現れたらどう乗り越えるかを考えて、考えて、考えて、進む。

 僕が退学をして仕事を選んだ時も、あずささんがいなかったら姉を説得することはできなかった。紙の資料を作って説得材料のひとつにするなんて、僕一人だったら考えもしなかった。ぐるぐると同じところで迷って悩んでいる僕に、優先順位を示してくれた。解決方法を一緒に考えてくれた。

 今、あずささんは誰か人のために、自分の道を選んでいる。
 僕が今まであずささんから受け取ってきた、抱えきれないほどの恩を、どうやったら返せるのか。今度は僕が自分だけの力で、考えて、考えて、考えて、行動する番だ。

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