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【紫陽花と太陽・下】第十話 指輪[1/3]

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 ある休日、桐華とうか姉が録画したドラマを観ていた。僕は普段テレビは観ないので(テレビより読書の方が好きだから)、リビングからは遠いダイニングテーブルで妹——椿つばきの宿題の丸付けをしていた。

「はい、できた。全問正解だよ」
「わぁーい! すごい? 私すごい?」
「うん、すごい。学校で先生の話をよく聞いてるってことだね」
「うん!」

 普段椿と一緒に過ごすことの多いあずささんの影響か、彼女が実の姉よりも親身に面倒をみているおかげか、椿は学校や友達の家から帰ってくるとすぐに宿題を終わらせてしまう。今日は僕が仕事がない日だったので、代わりに丸付けをした。ちなみにあずささんはまだ学校だ。

 小学三年生の椿。僕は目を細めて椿を見た。
 自分が同じ頃、母さんが椿を出産した。もうあまり覚えていないけど、桐華姉みたいに大きなお腹を抱えて大変だっただろうに、ごはんを作ったり、僕が外遊びでぐちゃぐちゃに汚したシャツとかを洗濯したりしたのだろう。昨年の秋に桐華姉が出産した愛娘もすくすく育ち、今はもう生後七ヶ月ほど。椿はその頃の僕と同じ気持ちになったりするのだろうか。

 今まさに頭に浮かんだ柚子ゆずが向こうで泣き始めた。昼寝だか夕寝だか分からない時間帯だけど起きたみたいだ。
 桐華姉の様子を見ていたがドラマに夢中なのか一向に動かないので、仕方なく僕が柚子の様子を見に行った。
 腕にバスタオルが引っかかって取れなくなっており、困っていたようだった。あやしながら何となしにテレビを見た。

 男性が女性に、プロポーズをしているシーンだった。

 もうすぐ僕は一八歳になろうとしている。一八といえば、成人になる。形式上のものかもしれない。昔は二十歳が成人だった。選挙権がどうの、いろんな契約が一人でもできるようになるだの、そういう認識くらいしかなかったのだけど……。

 ドキリとした。頭の中にあずささんが一瞬よぎった。

 結婚したい、とは前々からずっと思っていた。お付き合いを始めてすぐくらいにはもう考えていたと思う。この先の人生において、隣りにいてほしい人はあずささん以外に考えられない。

 ただ、言い訳がましいけれど、プロポーズをどうするのかはさっぱり分からなかった。
 書類を調べて渡せばいい? 告白した時のようにお仏壇の前で話をすればいい? 修学旅行デートの時みたいに歩きながら言えばいい? まるでさっぱりだ。

 目の前のドラマでは指輪を渡している。手に乗るくらいの小箱に入った、キラキラしたやつだ。……どちらかというと椿が好きそうだ。キラキラ、ふわふわ、そういうものに妹はご執心だ。
 ひろまささんや縁田えんださんに聞いてみたいとすら思った。世の中の夫婦は、一体それぞれどうやってプロポーズをしたんだろうか。


「もうすぐ誕生日だな」
 また別の日。仕事から帰宅し僕用に温め直してくれた晩ごはんを食べている向かいで、あずささんがお茶を飲みながらポツリと呟いた。口に食べ物が入っていたのでウンウンと頷く。

「ほしいもの、希望があれば聞きたいのだが……」
 ぽってりと丸みを帯びたマグカップは、昔、僕が彼女に贈ったプレゼントだ。紫陽花の雰囲気によく似たあずささんにぴったりの、淡い色合いの花がプリントされたカップ。それを両手でくるくる回しながら、あずささんが上目遣いで回答を待っていた。

「なんだろう……?」
 僕は小首を傾げた。
 ほしいものが見つからない。
 服や靴、文房具は足りているし、読書用の本はその時気になったものを読むので、今は間に合っている。
「珈琲豆かな」
「いつも買っているぞ」
「そしたら、珈琲に合いそうなケーキ」
「誕生日ケーキはもう予約してある」

 あずささんを見ると、すごく困った顔をしていた。
「そんな、一生懸命に何か贈ろうと思わなくてもいいんだよ?」
 僕が言うと、あずささんは目を伏せた。
「その……こ、このような関係になってから、初めての誕生日ではないか……。今までなら渡せないようなものも、少しは遠慮なく贈れると思ってだな……」
 ぽっと顔を赤くしてしどろもどろに説明している。かわいいな……。
 でもどうしよう、本当に何も思いつかない。強いて言うなら……。
「じゃあ、あずささんが、ほしい」
 思わず率直に言ってしまった。あずささんはキョトンとする。
 先日のプロポーズのことが頭にあったので、あずささんの人生がほしい、という意味だったのだけど、口にしてみたらよく分からない言葉になってしまった。
「どうすればあげられるのだ?」
「……とりあえず、保留にしたいな。ちゃんと考えるから」
 僕が言うと、あずささんはホッとした顔で微笑んでくれた。

 あずささんの人生がほしい、ということは、縛ることになる、と思って戦慄した。
 まただ。また、父さんとの約束云々が登場してくるのか。僕は頭を抱えた。

 夜。
 隣であずささんがすやすやと寝ていた。穏やかな表情で僕は安心した。

 僕はベッドの上に寝転がりながら両腕を天井に伸ばしてみた。オレンジの豆電球と顔の間に手が見える。自分の手を凝視した。骨張った、家事と仕事でややカサついてしまった手だった。枕元のハンドクリームを塗って乾燥をなんとかしようと試みる。

 よく分からない焦燥感と自己嫌悪を感じているように思った。
 これは、一体なんだろう?
 毎年毎年、何かしら悩んでいる気がする。

 僕は両手を下ろし、もそもそと布団を被って寝ることにした。
 あまり夜に考えるとろくなことがないからだ。


「奥さんの容態はどうですか?」

 翌朝、僕は縁田さんに奥さんについて尋ねた。縁田さんは嬉しそうに報告してくれた。

「よくぞ聞いてくれたな! ふーちゃんね、足はまぁ悪いままなんだけど、遼くんに会いたいなぁってこの前話してたところなんだよ」
「僕のこと、覚えててくれているんですか?」
「そりゃあ、俺がかなり話してるからな」
「寝癖とか、そういう話はやめてくださいね」
「ガハハハ、まだ根に持ってる。後ろの髪の毛は見えないんだから、あー、やっちゃった! テヘ! くらいで流せばいいんだよ」
「そ、そうですか……」

 縁田さんがじっと僕を見つめてきた。いつも通り、笑顔でいるはずだ。僕はただ奥さんのことを聞いただけで……。

「今晩、ふーちゃんのところに一緒に行かねぇか? 飯、おごるからさ」
「そんな、おごっていただかなくても。僕の方も会えたら嬉しいですし」
「あ、そう。分かった。あずさちゃんにメールするなら行ってきていいよ。今、暇だし」

 最近お店が混んでバタバタしている時が多かったが、今日は珍しく閑散としていた。強めの雨が降っているせいかもしれない。六月は梅雨の時期だ。

 お店の名前の『紫陽花』にとっては、今が一番美しく咲き誇る季節だ。

 僕はカトラリーを拭く手を止めて、あずささんに『縁田さんと食べるので、すみませんが今日の晩ごはんはいりません』とメールをするべく、店の裏扉を開けた。

 縁田さんの奥さんの病院はお店からすごく遠い場所にあった。電車を一回乗り換えて、そこからバスを使った。バス停からはすぐだったので、そこまで雨に濡れずに済んだ。でも、次もし僕が一人で行くことがあったら迷いそうだ。乗り換えがあるととたんに難易度があがる。そういうところが、姉に子供扱いされてしまうのだ。

「あれっ」
 僕は思わず声を上げた。濃灰色の傘を持った縁田さんの左手に指輪を見つけたからだ。
 縁田さんが不思議そうに僕を見た。
「どうした?」
「……指輪、いつもしてましたっけ?」
「指輪?」
 縁田さんが自分の手を一瞬見て、あぁ、と納得したように頷いた。
「結婚指輪ね。店では外してるよ。邪魔だし」

 サンドイッチやスパゲッティを作っている時、つい作業スピードがあざやかで手元を見ることが多いのだけど、何も付けていなかった気がしていたので聞いてしまった。やっぱりいつもは付けてなかったんだ。

 縁田さんが、僕を見ながらイシシと笑った。
「面接の時とか、打ち合わせの時とかは付けてたかもしれないが……。遼くん、目ざといね。それか、今気になっているのかな」
「えぇと」
「今日はふーちゃんに会いに行くからね。俺にとってはデートだ。すっごく楽しい。そういう特別な時に指輪を付けるんだよな、俺は」

 そう言って、縁田さんは病院の受付で面会の手続きをし始めた。電車に乗っている時は、ふーちゃんが、ふーちゃんがとデレデレと奥さんのことを話していたくせに、受付ではキリっとして大人の対応をしているので差が面白い。
 僕は後ろでつい微笑んでしまった。

「あらぁ、お久しぶりですね。遼介りょうすけくん」
「あ、どうも……。ご無沙汰してます!」
「さっ、もっと中に入って! 今椅子を出すからな」

 ふーちゃんこと縁田さんの奥さんの部屋に入ると、パァッと花のような笑顔に出迎えられた。足が悪いだけで話ができるのは、本当にありがたいことだとつくづく思う。

 途中、縁田さんの知り合いのお店でホット珈琲を三つテイクアウトしてきたので、それぞれ珈琲を手に、話し始めた。縁田さんは知り合いがすごく多い。常連のお客さんも友達みたいに仲がいいし、京都にも友達がいて珈琲屋さんをしていた。店の珈琲豆を焙煎しているお店のオーナーも友達だと言っていた。人脈がすごいといつも感心する。

 珈琲を飲み、ふーちゃんが笑う、縁田さんがいつもの大声で身振り手振り付きで話し(主に店のお客さんの面白話とか、接客中の僕や冴木さえきさんのことだった)、僕もつい声を出して笑ってしまう。

「そうそう、遼くんさぁ、指輪がほしいんだって」

 珈琲が気管に入ってしまい、むせた。
「ほしいとは一言も言ってません!」
「あ、そう? 今日はなんだかご夫婦のお客さんのことばかりじーっと見てたよね」
 そうだったかな? 無意識なのか、まるで記憶にない。
「俺がちょーっと指輪してたら、すぐに気が付くし」
「珍しいなって、思っただけです!」

 ふーちゃんがくすくすと笑っている。その左手にも指輪が光っている。
 咳き込んだのがだいぶ収まってきたので、深呼吸をして聞いてみた。

「その、指輪って、一体どうやって買うんでしょうか……」
 縁田さんがキョトンとして僕を見た。
「どうやって? 店だけど?」
「ス、スーパーにはないですし……、雑貨屋さんとかでしょうか?」
「スーパー⁉︎ 雑貨屋⁉︎」
 そんな大声出さなくても。頬がカッと熱くなる。
「ジュエリーショップだよ! ジュエリー!」
「ジュエリーショップ?」
「そのまんま繰り返したね、遼くん。うーん、まぁ行かねぇか。よく考えたらまだ高校生だもんな」
「デパートには、そりゃあ行かないでしょうねぇ」

 ふーちゃんが『デパート』という単語を口にした。聞いたことあるような、ないような……。縁田さんがさっと懐からスマホを取り出し、ちゃっちゃっと調べ物をして、画面を僕にずい、と見せてくれた。

「ほら、遼くん家の近くにあるデパート。まぁ遠いけど、電車にも乗らないといけないけど、行けなくもない。こういうところ、あまり行かないか?」
「な、何があるところですか?」
「行かなさそうだな……。すげぇな。毎日頑張ってるもんな……。
 何があるって、色々あるんだよ。菓子も、惣菜も、弁当も、パン屋も、おもちゃも、カフェも、服も……。何だ、とにかくいろいろいろいろあるところだ」
「はぁ」
「服はものすごく置いてあるな。いろんなブランドごとに店が立ち並んでいる。婦人服、紳士服で階も別れているし……」
「そんなに高いお店なんですか?」
「本当に行ったことなさそうだな……」

 縁田さんが目を丸くしているので、僕は冷や汗が出た。今までの自分の行動範囲の狭さが浮き彫りになってしまった。

「俺が指輪を買ったのはデパートで、そいつは四階建てだった。地下もあったかな。その三階で買ったんだよ」
「まぁ、よく覚えていますね」
 ふーちゃんが口に手を当てて驚いている。一生に一度のことだからな! と縁田さんがふんぞり返ってニヤリと笑った。
「ただし、高い」
「ね、値段ですか?」
「階のことじゃねぇよ……。値段。まぁ覚悟したほうがいいぞ。結婚指輪……より婚約指輪になるんじゃないのか? 遼くんの場合は」
「婚約指輪? って、結婚指輪とまた違うんですか?」
「おーおー、白状したな。結婚指輪をほしいなと思ったんだな」
「あぁっ……!」

 最初は指輪、しか言っていなかったはずなのだが、何やら流れで結婚指輪のことを聞いてしまった。縁田さんには隠し事ができない。そもそも隠すことも苦手なんだけど。
 それで、あずささんにプロポーズをしたいというひそかな願望を、縁田さんご夫婦になぜか暴露する羽目になってしまった。


「値段の高いか安いかじゃあ、ないと思いますよ。大事なのは気持ちだと思います」
 優しい声のふーちゃんが微笑んで僕を見て言った。隣の縁田さんもコクコクと頷く。
「ふーちゃん、良いこと言うねぇ」

「はぁ……」
「指のサイズは分かっているのかしら?」
「指のサイズ⁉︎」
 僕は思わず自分の手を見た。指にサイズがあるのか? 世の中知らないことだらけだ。
「お店に直接行けば、測ってくれると思いますよ」
「俺の時も測ったよな」
「ええ」
「実際にはめてみてからの方が安心するよな。一生に一度の買い物だしな」
「確かにそうですよね……」

 さっき縁田さんが調べてくれた最寄りのデパートというところで、お店一覧を見てみた。アクセサリー、というジャンルで何件かお店がありそうだったのでホッとする。

 指輪一つ買うにも、こんなにも知らないことばかりで泣きそうになった。プロポーズする前に分かって良かった。考えずに行動ばかり先にしてしまうと失敗する。失敗はたくさんしてもいいと言うが、準備をすれば避けられるものはきちんと準備しておきたい。

 だいぶ冷めてしまった珈琲を飲み干し、お二人に丁寧にお礼を言った。
 二人とも穏やかな笑顔で返してくれた。



(つづく)


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