小説【紫陽花と太陽】番外編 愛の自動販売機
こちらは私のオリジナル長編小説「紫陽花と太陽」の番外編のお話です。
現在長編小説を公開中。
「紫陽花と太陽・中」最初のお話はこちら↓
登場人物は知らなくても番外編となりますので、お読みいただける内容かと思います。第七話へ進む前に一呼吸。
お好きな飲み物片手にどうぞごゆっくり。
お楽しみくださると幸いです。
スマホを買い替えた。
ずっと充電の接続部分の調子が悪かったのをだましだまし使っていたのだが、先日ついに落とし、派手に画面が割れてしまった。心置きなく新しいものに買い替えることができて俺はホッとした。中のデータをまるごと移動できたので再度安心し、今、写真を見直しているところだった。
懐かしい写真が出てきた。
これは、俺が初めて桐華のご家族と顔を合わせたあの旅行のシーンだと思う。いや、一度思い出せば当時の記憶がどんどん鮮明に思い出されてくるので、改めてこれはあの家族旅行の時のものだと確信した。
今から数年前。遼介くんとあずさちゃんが中学三年生の五月頃だったはずだ。
当時、ゴールデンウィークの繁忙期を避けた五月下旬を狙って、桐華のご家族たちは年に一度の家族旅行を計画していた。桐華——俺の妻で今は翠我家の大黒柱となっている——はご家族が多く、普段暮らす家には桐華を始め、当時二つ下の妹と十二歳下の弟、二十一歳下の妹、複雑な経緯で居候となった弟と同じ年の女の子が同居していた。桐華の父親は単身赴任でいつもは家におらず、日本各地をあっちこっちと働いていた。
単身赴任の父親と会える貴重な時間。家族旅行は翠我家みんなにとって、とても楽しみにしていたイベントだった。
だが、遼介くんたちが中学三年生のこの年。彼の父親……俺にとってはお義父さんが、会社の定期健康診断で異常箇所が見つかり検査入院をすることになってしまったため、残念ながら参加することが叶わなかった。
代わりに桐華の夫の俺が参加することになった。
今、スマホの画面に映し出された写真は、旅行先の旅館の部屋で撮ったものだ。左から、末の妹の椿ちゃん、遼介くん、あずさちゃんが写っている。アイスクリームを食べているシーンだった。
俺は微笑んだ。アイスクリームを食べている、ただそれだけの一枚なのだが、俺は当時の様子を今も鮮明に思い出してしまう。俺にとっては当たり前で特に意識しないことなのに、彼ら三人が集まるととても大切な出来事なのだと感じた。誰もが幼い頃に体験するであろう、たくさんの初めてのこと。それを、このあずさちゃんという女の子は、中学生になってようやく数多く経験することになったという。
* * *
「広いねぇー。椿、走れそうだよ!」
「わぁーい! わぁーい!」
翠我家の家族旅行は人数が多いのでいつも露天風呂付き客室を予約するらしい。大人三人、子供二人、幼児一人の総勢六人が二泊するこの部屋は、風呂付きなだけあってかなりの広さだ。ベッドが三個、和室には布団を三組敷ける仕様だとか。リビングのような家族が集まってくつろげる広い部屋が真ん中にどーんとあり、大きな革張りのソファとその前にローテーブル、奥にはテラスもあって近くの湖の雄大な景色がのんびりと眺められる。洗面台も二つだ。清潔感のある洗面所、その奥に簡易シャワールームがあって、最奥部に露天風呂があった。
俺は大学生のころから長らく単身で暮らしていたので、こんな大家族で過ごすことや広々とした客室でくつろぐことは初めてだった。いい歳をした俺自身も初体験をしたのだった。
「お父さんが今日来れなくなったのは残念だけど……。椿の機嫌も直って良かったわ」
桐華が小さな声で梨枝さんと俺に言った。梨枝さんが頷く。
「そうね……。検査入院って言ったときは遼介も一瞬顔が強張った気がしたけど。ま、意外とすぐ気持ちを切り替えてくれたもんね」
その言葉に俺は遼介くんたちを見た。彼は椿ちゃんとドタドタと室内を走り回っていた。追いかけ回しているようにも見えた。……鬼ごっこか。
桐華があまりの騒然具合に怒鳴りつけ、ピタリと遼介くんと椿ちゃんが走るのをやめた。彼の顔が、あーぁ、また怒られちゃった! のような表情をしていたので、俺は思わず吹き出してしまった。
桐華と梨枝さんはそろって大浴場に行き、俺は読書でもしようと室内のソファに座っていた。
「たいちょー、もう このへやは たんけん しつくしたでアリマス!」
「えー? そう。まぁ、広いけど限度があるもんね」
「たいちょー、つばきは もう いえに かえりたいでアリマス!」
「な、何っ⁉ 椿ちゃん……もう帰りたい……のか?」
「あずささん、椿の言うこと、ほどほどに聞くのでいいからね」
「だ、だがしかし! まだ到着して三十分ほどしか経っていないではないか! もう帰宅したいというのは……明日だけではなく、明後日もあるというのに……」
椿ちゃんがごろごろとソファに寝転がった。遼介くんは慣れているのだろうか、椿ちゃんのもう飽きた発言にも動じず、にこにこと笑いながらお茶のペットボトルを飲んでいた。あずさちゃんだけが両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら慌てていた。
俺は初めて今日彼らに会ったけれど、面白いので黙って様子を見ていた。
「あずささん、お茶とか水分摂ってる? あ、ペットボトルの蓋、開けようか?」
「そういわれてみると……摂っていないな。……すまないが、もう一度開け方を見せてくれないか?」
「いいよー」
遼介くんが、あずさちゃんがリュックサックの中から出してきたほうじ茶のペットボトルの蓋をゆっくり開けてあげていた。俺は困惑した。……蓋? 今更? 開け方?
「遼介は力があるな……。今度からは自分でできるぞ」
「最初に開けるときはちょっと力が必要かもね。でもあずささんならできるよ」
「一旦閉めてくれないか?」
「今? いいよ。……はい」
「ありがとう。……うぅ、一度閉め直すと固いな……」
「でもできたよ。開けられたよ! あずささん、やったね!」
「最初の開ける練習は一度しかできないからな。また今度やってみることにする」
不思議なやりとりの後、あずさちゃんが満足そうにボトルをテーブルに置いた。
「あずささん! いや、飲もうよ!」
「あぁ、そうだった」
再びボトルを手にしたあずさちゃんが、ゆっくりと蓋を外してこくこくとお茶を飲んだ。
肌がぬけるように白く、黒く長い髪を左後ろでゆるくまとめているこの美しい彼女は、桐華や遼介くんとは血が繋がっていない。彼女の義兄に暴行を受けて逃げ出したところを、遼介くんの父親がかくまっている(つまりは居候になる)状態だと言っていた。
出会って数十分しか経っていないが、彼女がそうとう世間知らずだということが分かった。
「お兄ちゃん、アイスたべたい」
遼介くんたちの様子をじっと眺めていた椿ちゃんが突然宣言した。
「アイス?」
「アイス?」
遼介くんとあずさちゃんが二人揃って同じことを同じタイミングで発した。吹き出しそうになるのを頑張って堪えた。聞き耳を立てているのは少し気まずい。
「困ったな……。アイスなどの冷たい菓子は準備をしていなかった。保冷バッグも私は持っていないし、どうしたらいいだろうか、遼介」
「真面目だねー、あずささん。尊敬ものだよ」
「お兄ちゃん、アイス! アイス!」
「はいはい。アイスね。アイスの自販機くらい、どっかにありそうじゃないかな。探しに行こう!」
「いえっさー!」
アイスをご所望の妹君に、望みの品を。遼介くんはアイスの自動販売機を探しに行く準備をし始めた。その周りを椿ちゃんがピョンコ、ピョンコと飛び跳ねる。
「あ、お金がない」
さいふー! と彼が呟いてリュックサックをごそごそと探し始めたので、俺は千円札を手渡した。彼は目を丸くしてそれから桐華に怒られるからと遠慮したので、俺は無理やり札を握らせてしまった。アイスくらい可愛いものだ、と本当に思ったのだ。
ペコペコと頭を下げられお礼も言われ、三人は連れ立って出て行った。
帰りたいと言っていた椿ちゃんはもうどこにもいなかった。
本を読み始めて三十分ほど経過しただろうか。ふと気が付くと意外と時間が経っていたので、俺は道にでも迷ったのか、部屋番号を伝え損ねていたのかもと不安になった。桐華にメールで連絡をとろうか……と考えたところで、バタンガタンと玄関で音がした。
三人がアイスを片手に無事戻ってきた。
「部屋番号を伝えていなかったのかと思って心配したよ」
俺がついこぼすと、遼介くんが大きく頷いた。
「僕は聞くのを忘れていました。でも、あずささんがしっかり番号を覚えてくれていたので、どうにか戻ってこれました!」
彼があずさちゃんの方を向いて、ありがとー!、とお礼を言った。
椿ちゃんは我慢できないようで、アイスアイスと駆け込んできた。待ってーと遼介くんが慌てて後を追いかけ、最後にあずさちゃんがみんなの脱ぎ散らかした靴をそっと揃えて、部屋に入ってきた。
アイスは円柱状にスティックが付いたタイプの、まぁよくある見慣れたものだった。
椿ちゃんのアイスの包み紙をさっそく遼介くんがめくってあげていた。椿ちゃんは……黒いクッキーとバニラアイスが混ざったような味にしたようだ。スティックを小さな手でしっかり持ちながら、美味しそうにパクパク食べ始めた。
あずさちゃんがその椿ちゃんを目を丸くして眺めていた。彼女の手にはピンク色のアイスがある。いちごの絵が描いてあるのでいちご味だと思う。遼介くんのアイスはテーブルに置かれたままだ。チョコミント……俺は苦手な味なのだが好きな人は好きらしい。桐華もたまに食べていた記憶がある。
しばらくして遼介くんがリビングのローテーブルに戻ってきた。
「はい、あずささん。もし良かったら使ってね」
あずさちゃんが驚いて彼を見上げた。俺も驚いた。だって、彼が持って渡していたものは、深めのお皿とスプーン、フォークだったからだ。
「……これは?」
「え? お皿とスプーンとフォークだよ。あずささん、大きな口開けて食べるの苦手かと思って」
そう言って、彼は自分のアイスをひょいと持ち上げてベリベリと紙を剥がしていった。その様子を、彼女はじっと見つめ……やがて自分でゆっくりと紙を剥がし始めた。
「お兄ちゃんのそれ、みどりだけど、おいしいの?」
椿ちゃんがじとーっとした目でチョコミントのアイスを見た。俺が苦手なのはまさにその緑……ミントの味なのだ。爽やかさが甘味に必要なのか? と疑問が拭えない。
「おいしいよー」
にっこり笑いながら遼介くんがアイスを食べている。隣であずさちゃんがいちごのアイスを皿に置き、器用にスプーンとフォークで一口ずつ丁寧に食べていた。
俺は目を細めて目の前の光景を見ていた。おもむろにスマホを取り出し、三人を撮った。
「あはは、椿、その口のまま撮られたよ。ひろまささんに」
椿ちゃんの口の周りはまるで泥棒みたいに黒い輪ができていた。ココアクッキーとバニラアイスが混ざったものがくっついているのだ。その泥棒フェイスのまま椿ちゃんがニヤリと笑ったので、遼介くんも俺も、そしてあずさちゃんまでもが笑った。もう一度撮った。残念ながら二枚目の写真はブレてしまってうまく撮れなかった。
椿ちゃんがどうにか食べ終わった時、皿は一応目の前に置かれていたのだが意味をなさず、クッキーのかけらやらアイスのこぼれたものでテーブルは悲惨な状況になっていた。既に食べ終えた遼介くんがどこからか濡れたタオルでさっと拭き、もう一枚のキレイなタオルで椿ちゃんの口と手を拭いてあげていた。
「遼介くんは、いつも椿ちゃんのお世話をしているんだね」
俺がぽつりと呟くと、彼は驚いた顔で俺の方を向いた。
「そうだよぉー、つばきはいつもお兄ちゃんに、おせわされているんだよ!」
えっへんと椿ちゃんが言ってふんぞり返った。その拍子に後ろに倒れそうになったので、絶妙なタイミングで遼介くんが背に手をやって倒れるのを防いであげていた。俺はまた笑ってしまった。
「あずささん、ゆっくりでいいからね」
あずさちゃんは黙々とまだアイスを食べていた。溶けかかっているところもあるけれど、一生懸命にアイスを食べているのが俺でも分かった。遼介くんは一度も彼女を急かさなかった。彼女が食べやすい方法も知っていて提案していた。
——スティックアイスは棒を持って食べないといけない、わけではない。
——溶けないように急いで食べないといけない、わけではない。
俺は、遼介くんがものすごく優しい男の子だと、この時知ったのだ。
夕食はバイキングだった。
新婚旅行や記念日などの特別な時は部屋でのんびりと食べるプランもあるけれど、今回の家族旅行は広い会場で各々好きなものを選んで取ってくる、まぁよくある夕食形式だった。
遼介くんからこっそり伝えられた。
『あずささんは自分の食べたいものを決めるのに時間がかかるので、遅くなっても気にしないでほしいです。あと食べ終わったら先に帰っていてほしいです』
と。
この時俺はまだ、お義父さんからあずさちゃんについて詳しく話をされていなかったので、どういうことかよく分からなかったのだが。それでもバイキング会場での彼女の様子を見て彼の言う意味が少し分かった。
椿ちゃんの世話は、この時は桐華と梨枝さんが任されていた。
遼介くんはおどおどするあずさちゃんにつきっきりで選ぶのに付き合っていた。聞けば彼女は旅行をすること自体も初めてのことだという。彼女の人生でバイキングはおろか、普段の自分の食の好みすら決めてこなかったという。
椿ちゃんは栄養価がまるでないような、砂糖ばっかりの甘い食べ物をここぞとばかりに選んで食べていた。桐華に「野菜を何も食べてないじゃない!」とツッコまれ、元気よく「こーんすーぷ!」と答えていた。これはたぶん既製品でコーンの姿かたちはどこにもない。野菜を食べたと言え……ないかもしれない。
ものすごく時間をかけて戻ってきたあずさちゃんは、しょんぼりと項垂れてそっと席に座った。
「……遼介、本当に、申し訳ない……」
「何が?」
「……こんなに、自分の食べたい物が分からないことで時間がかかってしまった。遼介にお腹をすかせたまま選ぶのに付き合わせてしまった……」
「全然⁉ それより食べよ! せっかく選んだんだしさ!」
「……あ、あぁ」
白飯と五穀米らしき豆がたくさん入ったごはんをお茶碗山盛りにした遼介くんが、さっそくもりもりと食べ始めた。最近お腹がすごく空くんだと言って桐華に苦笑されていた。食費がかさむのよね……と、桐華が呟いていた。
あずさちゃんの選んだ食事は和食だった。遼介くんの量と比べるとすごく控えめな量だったが、背筋をぴんと伸ばし美しく丁寧に食べていた。
椿ちゃんの選んだメニューについての感想に遼介くんの食事量のすごさ、桐華や梨枝さんの食の好み、普段の暮らしぶりのあれこれ……。お義父さんの代わりに参加した俺だけれど、不思議と馴染んで笑っている自分に驚いた。
この家族は、本当に愛に溢れている。
俺はこの旅行後に桐華の家に引っ越しをする予定になっていた。単身生活が長い俺が突然大家族の中で暮らす。溶け込めるかどうか不安だった。馴染めるかどうか気掛かりだった。
だが、きっと大丈夫なような気がする。
俺は今日来ることの叶わなかったお義父さんの代わりに、遼介くんとあずさちゃんをじっと眺めた。お義父さんはこの二人のことをとても心配していたからだ。あずさちゃんがこの先の未来を、一人で切り開いていけるかどうか、いずれ自立してやっていけるかどうか、心配していた。
俺は思う。遼介くんが隣にいるから安心だと。
この短い時間でさえ、遼介くんのあずさちゃんに対する深い愛情は分かったのだ。家族としての、愛が。決して手出し口出しをしすぎるわけではなく、いろいろ挑戦させてそっと背中を押してあげている。困った時に側にいてあげている。
「桐華姉。椿の口と手、すごく汚れているから拭いてあげた方がいいよ。自分の服に付きそうだよ」
俺の向かいでもりもりとおかわりのカレーを食べていた遼介くんが、桐華に言った。ちらりと桐華を見ると、デザートに夢中で椿ちゃんの世話は放ったらかしだった。
「あらそう。椿、自分で手と口、拭ける?」
「うーい」
椿ちゃんが自分で拭き始めた。ガシガシと拭き方は乱暴だけれど、それでも自分で拭いた。彼がそれを見てにっこり笑って言った。
「あ、椿。自分で拭けたね。お姉さんだねー」
「うい。つばき、もうお姉さんだもんね! あずさお姉ちゃんみたいな!」
そう言って椿ちゃんが、長い髪を後ろにふぁさっとかき上げた。とたんに姉二人が爆笑した。顔が、とか、眉毛が、とか笑いながら言っている。あずさちゃんは誰が見ても美しく整った顔立ちだが、椿ちゃんは眉毛が太くどちらかというと可愛い一択だ。
バイキング会場に笑顔が溢れる。見るとあずさちゃんも控えめに笑っていた。
すごく楽しい、もう二度と戻らない貴重な家族旅行だった。
(番外編 END)
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