【紫陽花と太陽・中】第六話 紫陽花の店で
「好きです。俺とお付き合いしてください」
中庭に突然呼び出され、私のどこが好みだとか自分はこういう性格だとか、そして思いの丈をとつとつと伝えられ、私は困惑する。
今初めて名乗られてようやく本人の名前が判明したというくらい接点がないにも関わらず、どうして私が付き合って良いと答えると思うのだろうか。
こういうことは高校に入ってから何度もあった。毎回慣れず、毎回困惑する。
丁重に辞退をし、そそくさと教室に戻った。優しい眼差しのさくらと日向に迎えられ、ようやく私は人心地ついた。
「おつかれさま。やっぱりあずさはモテるね」
「ちっとも望んでない。困っている」
「左手の薬指に、指輪でも付けられればいいのにね」
左手? 薬指? 私が小首を傾げると、日向が理由を懇切丁寧に教えてくれた。
「校則違反になるから、難しいな」
付けておけばこの告白の嵐から逃れられると思うと楽ではあるが、教員に指導されては本末転倒だ。私はできるだけ目立たず、ひっそりと平和に生きていきたいと思っている。
「リョウスケくんの話、近況はどうなの?」
「学校祭に来てくれるのかな?」
「学校祭?」
「そうそう、もうすぐじゃん。一般開放の時は生徒じゃない人も遊びに来れるんだよ」
「そうなのか」
「誘ってみたら?」
さくらと日向が気軽な調子で言ってきた。……私はゆるゆると首を横に振った。
高校を退学しフルタイムで働き出してから、遼介は多忙を極めていた。朝は出勤時間が遅めなので比較的ゆっくりしているが、夜帰宅してからは、メモ帳を片手にルーズリーフに何かを書き(へびがのたくったような字で)自主学習をしている。それをしていない時は、家事か、読書をしている。
遼介は優しい。言えば仕事を調整して学校祭に来てくれると思うが、今の私には誘う勇気はない。
それに……。
忙しいからといって、別に全く話さなくなったというわけではないのだ。
先月、六月の遼介の誕生日に私からは何も祝っていなかったので、この間遅れて誕生日プレゼントを贈った。一人旅をして珈琲を好きになってから、彼は家でもたびたび珈琲を淹れて飲むようになった。いつも粉末になったものを買っていたので、私はコーヒーミルを贈った。彼はものすごく感動し喜んでくれた。それからは豆で買ってくるようになり、珈琲を嗜む頻度はもっと多くなった。
夜、椿ちゃんが寝た後のしんとしたダイニングテーブルで、珈琲を手に時々お話をする。話題はお店のこと、お客さんのことが多い。私は今日の椿ちゃんの話をする。会っていない時間の椿ちゃんの様子を聞いて、遼介はいつも目を細めて微笑んでくれる。
最近、少しずつ遼介が笑ってくれるようになった。
私は、太陽のような遼介が、やっと雲から抜け出したように感じていた。
◇
ここに来たのは二度目だ。俺は記憶力に自信がある。一度来れば、たいていは迷わず次もたどり着くことができる。
「喫茶 紫陽花」。俺の幼馴染で親友の、遼介が働いている職場だ。
カロン。前に来たときと同じ軽やかなドアベルが鳴った。
「いらっしゃ……あ、なんだ、剛」
「おぅ」
今は夕方で、俺は高校を出てまっすぐこの店に立ち寄った。一時期夜だけの営業になったらしいが、遼介がフルタイムで働いてからこの店は昼も夜も営業することになったらしい。
「久しぶり。一ヶ月くらい経つんじゃない?」
「そんなに経ったか」
「分かんない。分かんないくらい久しぶりだよ」
俺は遼介に促され、前に来た時に座ったカウンターテーブルに座らされた。
音を立てずに水のグラスが目の前に置かれた。
座る前に店内をざっと見渡してみたら、俺以外にもお客さんが何人かちらほらと座っているのが見えた。閉店ガラガラではないのが良かったと思った。
「お前の近況はあずさが教えてくれてるから、大体は知ってるぞ」
「伝書鳩だ」
「仏頂面の伝書鳩な。学校ではいつもの女子二人以外には、全く笑ってねえ」
ちらりと遼介を見ると、複雑そうな顔をしていた。
前飲んだ時に美味しかったので珈琲を頼み、外が暑かったのでアイスコーヒーに変更した。普段は牛乳みたいなパックのアイスコーヒーを飲んでいるが、喫茶店のものはどんな味なのか、ちょっと興味がある。
他の客のところに行ったり会計したりと遼介が立ち働いていた。俺は見るともなしにそれを見ていた。
バイトをしてみたい、と言われた時は多少驚きはあったけれど、遼介の真剣な目を見たらかなり本気だと思った。それくらい力強い目をしていた。両立は難しいだろうなと思っていたら、なんと退学までしやがった。高校の受験勉強はかなりしていたと思う。父親の具合が悪いと知っていて心は落ち着かなかったと思うのに、遼介は嫌いな勉強を頑張っていた。それを、こいつはあっさりと捨てた。
「退学するとは思わなかった」
遼介が俺にアイスコーヒーを持ってきてくれた時、俺はつい零してしまった。
キョトンとして遼介が俺を見た。
「まぁ、びっくりさせたかもね。僕もびっくりした」
「お前が? お前までなんでびっくりするんだよ」
俺はアイスコーヒーを啜った。……うまい。香りがパックのものと全然違う。
「美味しいよね、ここのアイスコーヒー。……いや、退学理由はさ、完全な自己都合なんだよね。勉強より仕事を選んだから」
「あぁ」
「なのにさ、辞める前に父さんが死んじゃったもんだから、なんか先生方もクラスの人からも同情された」
遼介は困ったような顔をして微笑みながら続ける。
「僕が退学をして仕事しないと生きていけない、大変だな、みたいな言われ方をしたからさ。全然違うのに。父さんが死んだことと退学と仕事は、全然繋がってないのに。だから、びっくりしたんだ」
「内情は誰だって分からねえよ」
「そうなんだよね。イメージだけが独り歩きしてさ。でもまぁ、先生に怒られなかったのはラッキーだったなぁ」
「姉貴たちには怒られたのか?」
俺が聞くと、遼介は苦笑して俺を見た。
「怒られたよ。憤慨してた。僕と桐華姉で怒鳴り合いまでした。あれは人生で一番激しい言い合いだったと思うよ」
普段の穏やかな遼介を見てきているので、怒鳴るこいつを想像できなかった。
「そんなに大問題にさせちゃったのかい」
奥のキッチンから縁田店長さんが口を挟んだ。遼介がそれに答える。
「でも結局正社員になる前に、縁田さんがうちに来て、きちんと家族に話をしてくれたじゃないですか。それで姉も安心できたんだと思いますよ。僕が嘘ついてなかったって」
「人様の大事な長男坊を正社員にするんだから、当然のことをしたまでだ」
「長男って。最下層ですよ。姉が強すぎるんです」
遼介と縁田店長さん(えぇい長ったらしい。店長でいいやと心で決めた)の話によると、店長は遼介の家族に採用に関して話をしに行ったとのことだ。さっきから和やかに二人でおしゃべりしているが、いち社員を採用する際に上司自ら自宅に伺うなんて聞いたことがない。
俺は店長を不思議に思う。
遼介にとって、何が琴線に触れたのかは正直よく分からない。
ただ、のんびり屋だと思っていた遼介が、この数ヶ月で即断即決に近い速さで物事を選び取ったことに、俺はびっくりしたのだ。
「遼くんの家に行った時に嫁さん見たよ」
「嫁さん?」
俺は思わず店長を見た。店長がニヤリと笑った。
「あずさちゃん。初めて見たけど、めっちゃくちゃ可愛いよね」
「だから、嫁さんじゃないですってば!」
顔を赤くして遼介が必死に否定する。
俺はべらべらと仕事中におしゃべりしているのが気になり、一応後ろの他の客をちらりと見やってから小声で尋ねた。
「お前、結局、あずさとどうするんだよ」
「ど……どうって?」
「あずさのこと。どうなってるんだよって。何もないのか?」
遼介が心底不思議そうに小首を傾げた。
「店長さん、こいつ……あ、遼介と俺とあずさは同じ中学校だったんですが。遼介はあずさとずっと一緒の家で、一緒の部屋で、しかもずっと一緒に隣で寝てるんすよ」
俺が言うと店長が大きく目を丸くした。遼介が慌てる。
「な、なんでそんなことを縁田さんに言うんだよ! 全然関係ないじゃないか…!」
「えぇ、そうなの? 遼くん、嫁さんじゃないって言ってたのに……」
「違いますって! それに付き合ってるわけでもないです」
「えぇーっ⁉︎ 嘘だろ、どういうことなんだよ⁉︎」
店長の声が裏返った。でけぇ声だ、俺の後ろの客がこちらを見た。
「わわ、佐々木さんまで聞こえちゃうじゃないですか。おしゃべりはこれくらいにしましょうよ。他のお客さんに迷惑です!」
店長がさらに声を張り上げて後ろの客に怒鳴った。
「佐々木さぁーん! 今こっちで恋バナしているが、聞かないであげてくれぇー!」
無理ですね縁田さん、あんた声でかいから丸聞こえですよ、と客が返してきた。どうやら顔なじみの客らしい。
遼介が何とも情けない顔で弁明をした。
「……昔、あずささんが夜に怖い夢を見て何度も飛び起きることがあったので、その度にもう一度寝られるよう隣にいるようにしてたんです。妹にも同じことをしていたのでそれと同じ感覚で……」
「さすがに今はそんなことないだろ」
「う、うん……あずささんはしっかり寝られるようになってるよ。でも、父さんが死ぬ前とかは、今度は僕がうなされて飛び起きることもあって。部屋を別にする話もしたけど、あずささんは心配だからって……。それで結局今もそのままなだけだよ」
「……」
遼介が夜に起きる話は知らなかった。そりゃあこういう細々とした出来事まで報告はしないだろう。中学生の頃の話だ。受験受験が俺でさえキツくて、勉強以外はそこまで話もしなかった気がする。
「いや、さ。僕だって、あずささんにもし誰か好きな人ができたら部屋を別にしないとな、くらいは考えてるよ。いつまでも子供じゃないんだから。まぁそろそろ部屋をどうするか話しても良い頃かもね」
遼介がにっこりと笑いながら話す。俺は唖然とする。あずさに誰か好きな人ができたら、だと? こいつは自分が想われていることに全然気が付いていないのか?
それに……と俺はいつも不思議に思う。遼介があずさのことを好きなのは、中学二年の終わり頃にとっくに気が付いていた。あずさが初めて笑った時、持っていた湯のみを思わず落としてしまったくらいに。どうして告白しないのだろうか。
今は、念願の仕事を頑張りたいのかな……と俺は無理やり自分を納得させた。
高校の奴らは遼介のような話はしない。恋愛か、勉強か、部活か。最近ハマってる遊びか……。
エプロン姿が絶妙に似合う遼介に、店長が目を丸くして言った。
「遼くんは……変わった人だねぇ」
すると間髪入れず遼介が真面目な顔で、
「縁田さんにだけは言われたくないです」
と言ったので、俺は飲んでいたアイスコーヒーを盛大に吹き出してしまった。
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