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音が出る文章を書きたい

2024.08.16
ぺぎんの日記#133
「音が出る文章を書きたい」


寝る前に朗読を聴くのが好きで、最近は宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」をやっと聴き終えた。「やっと聴き終えた」というのは、私がすぐ眠ってしまうので、全部聴き終えるまでかなりの時間がかかってしまったという意味。

なぜ「グスコーブドリの伝記」を、青空文庫で読むのではなくて、朗読で聴く必要があるのか。それは宮沢賢治が”音を大切にした作品”を書いているからだと思う。

読者に、字面で情報を伝えようとしているのではなく、字面から伝わってくる”音”によって世界観を伝えようとしている。「〜のでした」「〜ました」という文体も、どこか幼い頃にされた読み聞かせを彷彿とさせる。

声に出して読む人がどんな解釈をして、文章を読んでいるのか。それが文章という淡白な情報の上に上乗せされることによって、”宮沢賢治の世界”が構築されていっているように思える。

情報だけさらって、スルスルと読み進めていく読み方よりも、読み手の間や抑揚を味わいながら、何時間もかけて聴くような読み方。それが宮沢賢治作品には向いているような気がしている。あくまで個人の感想だけど。

そしてそこから何が言いたいのかというと、私もそんな文章を書いてみたいのだ。利益を追求した、字面を追っていけば大体の内容が分かる文章ではなくて、もっとゆっくり、音にしたときに初めて輝きを放つような文章を書きたい。

俳句や短歌、詩なんかは、大体そういう読み方をされるんじゃないだろうか。詩をダーッと見て、「あぁ、おおよそこういうことを言いたい詩なのだな。ふーん。」で終わる人は、なかなか居ないと思う。

一語一句、丁寧に見ていき、その過程で頭の中で文字が音となって再生される。ある1つの世界を伝えるために、その言葉で、そのリズムでなければならなかった必要性を感じる。そして「あぁ好きだなこの世界」だったり「何言ってるのか分からねえや」だったり、色々の感想を持つ。

ゆっくりゆっくり、音として再生される文章。
ゆっくりゆっくり、文章を自分の中に取り込んで、再構成する時間。

そうやって、もっと文章というものを味わいたい。
というか、そうやって味わってもらえるような文章を書けるようになりたい。

今はまだ、やたら擬音語を入れたりすることによって、読者を音の世界に引きずり込んでいるのだけれど、もっと宮沢賢治的にっていうのかな。ごくごく自然に、音が出るような文章を書きたい。

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