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「共感とは相手を受け容れること」なのかもしれない

私たちがよく耳にする「共感」という言葉。

自分のことを共感してもらえると安心するし、大切な人のことなら、なおのこと共感したいと思う。

私は、共感に必要なのは「言葉」だと思っていた。

だから、大切な人が悩んでいたら「そこから抜け出せる提案(言葉掛け)をしなければ」と思っていたし、実際にそうしようと努めていた。大切な人が自分を責めていたら「そんなに自分を責めないでほしい」と声を掛けたこともあったけど、そう言葉掛けをする度、自分に対して「その人は、それができないから悩んでるんじゃないか!」と心の中で叱責していた。

大切な人が悩んでいるときに、その人が求めている言葉がわからない、相手が欲している言葉をかけられない、そんな自分の共感能力の低さを情けないと思った。

でもそもそも
「共感」ってなんだろう?

そう考えた時、私が共感してもらえたと実感できたのは、決して「言葉」のチカラだけではなかったことを思い出した。

もちろんこれまで私はたくさんの言葉に助けられてきたのも事実だ。

悩んでいた時に、本や音楽から受け取った言葉に励まされたこともあったし、誰かに打ち明けて相手がくれた言葉に救われたこともあった。実は話した相手が似た境遇で、自分と同じような悩みを抱えていたと聞くと、なんだか嬉しくなったりもした。だから私も、誰かが悩んでいたら「なにか言葉、なにか言葉を」と、凝り固まった価値観にとらわれ、それに固執していたのかもしれない。

しかし、ある時、私がツラい心のうちを話した時に、その相手は私をそっと抱きしめてくれた。涙ぐんだ瞳で、黙って、ただ寄り添ってくれた。その時、そこには何も「言葉」はなかったはずなのに、不思議と私の心の中のモヤモヤがスゥっと和らいでいく感覚があった。それと同時に、抽象的な表現になってしまうのだけど、確実に自分の心がじんわりと温まる(満たされる)ような感覚があった。

「共感って、言葉だけじゃないんだ」

そう感じた出来事だった。

「共感する」とは、相手と同じ気持ちになるということではなく、相手を「受け容れる」「受け止める」「(存在を)認める」ことなのかもしれない。※個人的な見解

もちろん、相手が求めている言葉掛けができたら一番よいのかもしれないけど、どんなことがあっても自分は変わらずあなたのそばにいるというそのスタンスこそが、相手にとっては大きな安心感(共感してもらえたという実感)に繋がることもある。私がそうであったように。

心がザワザワして迷惑をかけてしまったのに、今も変わらず私のそばにいてくれる人。

「変わらずそばにいてくれる、
 変わらず隣にいてくれる」


それが、どんなに難しくて、どれほどにありがたいことか…。
その場に言葉はなくとも、人は共感することができる。
愛を受け取ることができるし、満たす(渡す)ことができる。

私を受け容れてくれたその人にとっての私も、そんな存在でありたいと思う。

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