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エンパスを強化するもの〜学校〜


きっと世界中のあちこちにエンパスはいる。
そして、日本に関して言えば、日本特有の文化や社会が、日本のエンパスたちを、共感能力の高い人たちを、さらに強力なものにしていると思う。

私は日本で教育を受けなかったら、超エンパスにはならなかった可能性があると思っている。

今の公立の学校体制や教育環境は、エンパスにとってはかなり厳しいものだ思う。自分自身の内面を見つめる機会がほとんどないからだ。

日本の学校は、学問以外は、集団で過ごす中で周りに合わせることを学びに行くようなもの。

エンパスは、元々その能力に頼って周りに合わせ過ぎる傾向にあるから、学ぶべきは真逆のことなのに、学校で過ごすことでさらにエンパスとしての力が強化されることになる。

自分を大切にしましょう、と声をかけられ、自分はどう考えるか、どんな気持ちか、を問われ、それを発言したり、扱い方を学ぶ機会が日本の学校では極めて少ない。私が学生のときと比べれば、今は少しはマシかもとは思うが、かなり少ない。

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私は、自分語りしたように、家庭がエンパス養成所のような環境だったため、家庭以外でも、周囲が望むものを察知し、それに合った対応をする、ということを意識せずやっていた。自分自身の気持ちや感情の表現は本当に少なかったと思う。

期待される答えが常に用意されている学校という場では、そんなことは全く問題なく、むしろ用意された答えをいつもほぼ完ぺきに答えていた私は、いわゆる優等生組に属していた。そんな風に体裁を整えることで、当時、自分は協調性のある人、とさえ思っていた。

でも、自分の気持ちや感情をキャッチして扱えないのに、どうやって協調性が得られるだろう?
表向きだけ周りと合わせていたら、それで人生オッケーなのだろうか?

それって違うよね?と、このアンバランスな感覚に気づき、整えていけるような環境が成長過程の私には必要だった。
でも、そんな機会はなかった。むしろアンバランスであるほうが、外の世界での評価はよかったという矛盾。

当時はもちろんエンパスなんて言葉や概念もまだなくて、エンパスをきっかけに自分の内側を見つめる機会は皆無だったから意識には上がっていなかったが、外の世界の評価なんてどうでもいい、とどこかで思っていた。

私という存在そのものに光が当たっていなかったことによる、小さな小さな心の叫びだったんだろう、と今思う。

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共感能力は人間の持つ素晴らしい能力だ。

共感しましょう、他人の気持ちになって理解しましょう、人を思いやる心を持ちましょう。

共感能力を育み活かしていくには、こんな言葉かけを学校の集団生活の中でしつつ促すのもいい。

でも、同時に何事もバランスが大切。

もともと共感能力が高い人にとって、今の教育スタイルは、さらに強化するトレーニングの場になるだけだ。

私は、本当はアンバランスなのに、外の世界での評価(といっても、ほぼ皆勤で通って、成績もそこそこだったっていうことだけど)というものでバランスを取るという芸当を続けてきた。

エンパスという概念を手にしたことで、自分のアンバランスさがよく見えてきて、歪みを直して姿勢よくスッキリ過ごしていきたい、と思うきっかけになっている。

きっと、当時の私のようなアンバランスからくる心地悪さ、苦しさ、違和感を抱えて、お休みが必要な子供やかつての子供が日本にはたくさんいるのではないかと思っている。

学校という場は、自分を見つめて、違和感を違和感として受け止める、それが自然と許容される場、自分を知り成長する場であってほしい。


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