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「脳」は私だけの、所有物ではない

執筆:ラボラトリオ研究員 小池沙輝

昔から脳のしくみについて興味をもって、自分なりに色々と探求してきた。

発端は、「自分はあまりにも記憶力が悪い」という切実な悩みがあったこと。

当時の私は、記憶力の良し悪しが仕事に直結していたということもあって、何とか克服しなければと、真剣にもがいていたのだ。

しかし、ちょうど2010年頃だっただろうか。

ネット通信の環境も整い通信速度も安定して、PCに文字を打ち込みさえすれば、その先には膨大な情報の泉にアクセスできる。また知りたい情報に瞬時にたどり着けることに、ワクワクが止まらない!

そんな転機が訪れたのだ。

この時、私の世界は一気に広がり、新しい次元とつながった感覚があった。

ネット検索が猛烈に楽しくて、無我夢中。

好奇心の赴くままに一日中キーボードを叩き続けても飽き足らず、まるで『不思議の国のアリス』のように新しい世界の扉を次々と開いては、さらにその先に広がる情報網にコネクトし続ける日々。

PCの前にすわってキーボードを叩くだけでこんなにも世界は広がり、軽やかに越境できるのだから。

そう考えると、あの頃は知りたいことは山ほどあって、それを一つ一つ知っていく作業が楽しくてたまらなかった。毎日がとても新鮮で輝いていた。

またこの頃、「クラウド」という概念が立ち上がり、そのシステムとサービスの恩恵を受けられる環境にあったことも、自分にとっては大きかった。

つまりインターネット通信でいつでもどこでも検索が可能になり、それに加えて「クラウド」というこれまでにない画期的な概念が立ち上がったことが、私にとって極めて大きな転機になったのである。

その時、私はこう思った。

もう覚えなくてもいい。頑張って頑張って、脳みそに知識を刷り込む必要はない。記憶する必要はないのだと。

このような一連の出来事は、ずっと「記憶」というものに対して強いコンプレックスを抱いていた私にとって、希望以外のなにものでもなかった。

こうして私は静かな安堵とともに「記憶しなければならない」プレッシャー、自分の脳みそにこれまでのすべての経験、あらゆる情報を刻印しなければならないという、目に見えない呪縛から解放されたのだ。

この時、私と記憶との格闘は、あっさりと幕を閉じたのである。

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この強烈な原体験によって、私のなかの「記憶」という概念が、鮮やかに、また一気に塗り替えられたといってもいい。

また同時に、私自身の「脳」に対するイメージが、まさに天変地異の如く、覆されてしまったのだった。

なぜなら、インターネットの登場以降、脳、あるいは自分一人、つまり「個」に帰属するものではなく、「外在化」することができ、また「共有」できると「公」のものということが、この時、はっきりとわかったからだ。

もっと正確にいえば、ストンと腑に落ちたといってもいい。

やはり実体験の威力はパワフルだ、と思う。

これまでは、すべての物事や出来事は、もちろん外部とのコミュニケーションや書物などからのインプットという刺激はあるにせよ、あくまでも自分の脳内で起こっていること(せいぜい1,300gほどの、閉ざされた空間)であって、その小さな脳という空間の中ですべて完結するもの、いや完結させるべきものとずっと思っていた。

それは、個人の記憶力の良し悪しに依存した、一つの閉鎖系の狭い世界のなかに閉じ込めれた状態だといえるだろう。

しかし、人間の脳というのは、私たちの想像をはるかに超えた、驚くべき可能性を有している。

そういった意味で、脳の未知の領域とその計り知れない可能性を極限まで引き出してくれたのは、インターネットをはじめとした電子機器の恩恵であり、また人間の脳の大きさをはるかに超えた、壮大な情報空間の誕生であったいえるだろう。

閉鎖系から開放系へ。

知はもはや個人に帰属する特別な所有物などではなく、フラットで自在につながることのできる情報空間(あるいは電脳空間)のなかで共有され、インタラクティヴなコミュニケーションプラットフォームのなかであらゆる人々によって編集され、情報はたえずアップデートされていくことで、結果的に、原型からはおよそ想像もつかないかたちを成していることも、十分にあり得るだろう。

そもそも太古の昔、先人たちははそれと極めて類似した方法で、もの語り、それらを伝承しながら、いくつものストーリーを紡いできた。

それは個というものを超えた、すべての存在、自然宇宙、また神々とのコミュニケーションの本来のあり方、結びの技であったといってもいい。

そしていつの時代も、見えない世界とのコミュニケーションの架け橋となり、よき物語を紡いできた語り部=ストーリーテラーが、新たな時代を創造してきたのである。

それが何億年もの歴史を超えて、今、情報空間のなかで起こっているということも、決して偶然ではないだろう。これほどまでに知が解放された広大な空間においては、つながる力、何かと何かを結ぶ力のほうがより重要な意味をもつことになり、それとともに誰もが魅力的なストーリーを生み出すことができる媒体として、生きることができるのではないか。

少なくともその可能性は、すべての人に開かれているのだ。

そういった意味では、近代哲学を牽引したデカルトの

我思う、ゆえに我あり」的な思考法から、私たちは逸脱すべき時を迎えたのかもしれない。

なぜならデカルトは、私という個人が思考することによって私がある、あるいは私は私であることを実証する、といっているからだ。

ここまでイメージを広げていくと「私」という存在や認識自体が、今明らかに、大きく変りつつある。それは「私」から「公」への概念の革命といってもいい。

なぜなら私とは、インターネットによる情報空間をはじめ、宇宙全体を取り巻く情報場とのコミュニケーションや関わり合い、外部とのつながりによって絶え間なく変化し続けるものであり、またその時々のまわりとの関係性によって、定位されるものだからである。

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【小池沙輝 プロフィール】

Paroleの編集担当。
のろまの亀で生きてた人生ですが、Paroleスタートに伴い、最近は「瞬息」で思いを言葉にできるよう、日々修行中です。短文修行は始まったばかり。

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