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私はここに眠っていない。作品が全て「空の空なるかな」M・デュラスの世界


愛人/ラマン(河出文庫)
清水 徹訳

フュールステン広場にて

フュールステン広場。それは広場と呼ぶには可愛らしすぎる小さな空間だった。中央の舞台のように一段高くなった場所は、天井や屋根こそないがロトンドと呼ぶに相応しい円形の空間になっていて、夏の光を浴びた緑の木立ちに四方から見守られるようにして1基の古い街灯が佇んでいた。
おそらくここを訪れた誰もをほっとさせるに充分な都会のオアシスと言うべき場所。
あなたのことを考える。正確にはあなた自身が書いた小説のことをとりとめもなく。

パリ6区にあるフュールステン広場


2011年初夏、自分はフランスの首都パリへ旅行し、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の裏に位置する「フュールステンベルグ広場」で物思いに耽っているところだ。
マルグリット・デュラスの世界に初めて触れたのはいつだったろうか。1984年に小説『愛人/ラマン(原題L’Amant)』を発表し1992年の5月には映画が日本公開されている。どういう流れで初めてその本を手に取ったかはもう忘れたけど、1992年に文庫本(単行本としては1985年)になってからすぐだったと記憶している。それからまもなく映画が公開され読後の興奮も醒めやらぬまま観に行った。

だがこれから書こうとしているのは映画のことではなくあくまでも小説についてである。

作家、映画監督、脚本家の肩書きを持つM・デュラス(仏)は1914年にフランス領インドシナのサイゴン(現ホーチミン市)で生まれた。1996年に81歳でその生涯を閉じるまで数多くの作品を残した著名な作家である。

ところで何故今になってデュラスなのか?その問いに対する答として相応しいのかはわからないが、それは遡ること数年前のモンパルナス墓地に端を発する。

2009年の夏に、日本からしばらくパリに滞在中の知人にモンパルナス墓地を案内してもらい、サルトルとボーヴォワールの墓を始めとして幾人かの著名な芸術家の墓を訪ねた。
その中でも目立っていたのは……彼の詩を愛する世界中のファンからのメッセージと可愛らしい鉢植えの花々が印象的なボードレールの墓、同じくファンからのメッセージに加えて彼のフォトフレーム、それに緑鮮やかな植木や寄せ植えに取り囲まれたセルジュ・ゲンズブールの墓だった。

ボードレールの墓


セルジュ・ゲンズブールの墓


しかし密かに目当てにしていた墓の前に辿り着いた時、正直、自分は目を疑った。「これがデュラスの墓なのか…」と絶句した。
簡素でシンプルすぎる墓石はおそらく本人の意思によるものだとしても、しばらく人が訪れた形跡も見られない。あまりに殺風景な様子に唖然となったのである。

デュラスの墓(中央)


小説『愛人/ラマン』について

デュラスの自伝的小説と言われているが、その要素が濃いとはいえいわゆる私小説と呼ばれるジャンルには属さないと自分は解釈する。これはもし一口で語るなら『フランス領インドシナで15歳のフランス人の少女が自らの意思で初めての相手に選んだ金持ちの中国人青年との愛人生活』と言える物語であるだろう。
それ以上の詳しい内容についてはここでは出来る限り控えたい。そしてこれは評論でも解説の類でもないということを最初にキチンと断っておきたい。自分は今、この小説を読み終えたときのことを思い出しながら出来るだけ感じたままに素直に語りたいという気分になっているのだ。

最後にページを閉じた後、なんて切ない恋愛なんだろうと思って目頭が熱くなった。映画やドラマなど数々観てきたつもりでも、所詮、絵空事の世界と登場人物に感情移入出来たものは少ない。決して涙脆いほうではないと自覚している自分がそんな状態になるなんて…。

それはやはりこの物語が単なる絵空事ではなく実際にデュラス本人が体験した実話だからなのか?
いや、そうではない。断じて、紛れもなく。
それはこの文体によるものだということ。

それがデュラス自身がそう名付ける<流れるエクリチュール>というものの効果なのだろうか。

ここでそのうちの一つの情景を引用してみたいと思う。

…そして、あの事件が起こったとき、星のきらめく空の下でショパンの音楽が突然鳴り響いたとき、娘はこの船の上にいたのだった。そよとの風もなく、音楽は暗い客船内のいたるところにひろがっていた、何かしらに関する天からの厳命のように、内容の知れぬ神の命令のように。そして娘は、まるで自分も自殺しようとしているかのように、自分も海に身を投げようとしているかのように、すっくと立った、それから彼女は泣いた、あのショロンの男のことを想ったからだった、そして彼女は突然、自分があの男を愛していなかったということに確信をもてなくなった、――愛していたのだが彼女には見えなかった愛、水が砂に吸い込まれて消えてしまうように、その愛が物語のなかに吸い込まれて消えていたからだ、そしていまようやく、彼女はその愛を見出したのだった、はるばると海を横切るように音楽の投げかけられたこの瞬間に。

本文より

何よりも改めて知って驚いたのは、これがデュラスが70歳のときに書いたものだということだ。
15歳半の少女時代の出来事をまるで現在進行形の物語の中にいるように語る。このみずみずしく抑制のきいた、時には「詩」そのもののような文章には舌を巻く。かと思えば行間から息遣いまで聞こえそうなほど、熱く狂おしく畳みかけるように。

これは作家としても女性としても成熟しきったデュラスだからこそ可能な事に違いない。

66歳でヤン・アンドレアという38歳も年下の青年を魅了し、その後の生涯を共に暮らし最後を看取られたというデュラスならではの芸当なのだろう(2人が知り合って以後の作品も含めて、この作品もデュラスがヤンに口述筆記を頼んだものである)。
だがそれについて自分が言えることなど果たしてあるのだろうか。ただ今こうしている中で感じているのは、デュラス、あなたもきっとこうしてこの景色を眺めたはずだとー。

(※最後に一言、翻訳者の清水 徹氏の御尽力にも敬意を表したい)


デュラスの住んだサン=ブノワ街5番地へ

モンパルナス墓地で遭遇したデュラスの墓、その印象がずっと強く頭の隅に残ったままだった。墓石に刻まれたMDの文字はもちろんデュラス自身の頭文字である。ということはデュラス1人が眠っているということなのだ。それは自分にとって孤独というものの正体をどうだといわんばかりに眼前に突きつけられた瞬間だったかもしれない。

ふと、そんなデュラスがずっと暮らしていた部屋はどんなところなのかが知りたくなった。

デュラスの住居は正確にいうなら3ヵ所ある。ヤンと知り合ったノルマンディーのトゥルーヴィルのマンション、それにパリから南西に36キロ離れたノーフル・ル・シャトーのセカンドハウス、しかし執筆活動や生活の本拠地と言えるのはやはりパリ6区のアパルトマンである。
『愛人/ラマン』を書き、最晩年の時期の殆どを過ごしたであろう部屋、若い愛人ヤンと一緒に。
部屋から見えた景色、執筆の合間のちょっとした気晴らしに散歩したであろう付近の街並み。
おそらく若すぎるヤンとは心が擦れ違う場面もあったろうがそれでも再びやり直そうと決め仲直りした部屋。
最後の時期ほとんどベッドに横たわったままでヤンに暴言を吐きつつもなだめられ介護をされた部屋。
そして生涯を閉じた部屋(最後の小説『これで、おしまい』の記述を真実とするなら息を引き取る3日前まで執筆していたということになる )。

フュールステンベルグ広場を後にしながら少し戻ると再びRue del’Abbaye(ラベイ通り)に出た。後はこの道を真っ直ぐサン・ジェルマン・デ・プレ教会の尖塔を左手に見ながら歩いていけば目的の場所すぐそばまで行けそうだ。おそらく200メートルぐらい。どんなにゆっくり歩いても5分とかからない距離だー。

サン・ジェルマン・デ・プレ教会が近づいてくる。

デカルトも眠っているロマネスク様式のどちらかといえばこじんまりとしたサイズのこの教会で、デュラスの葬儀は執り行われたという。

やがて教会の敷地の面する通りを突っ切りほんの1分足らず歩くとその通りに突き当たった。

サン=ブノワ街


長さ200メートルあるかどうかの小さな通りサン=ブノワ街。その5番地に目指す建物が、作家デュラスのアパルトマンがあるはずだ。


サン=ブノワ街を右手に折れるとすぐにそれは見つかった。あまりにも呆気なく。

特別なプレートなどもなく建物の入り口に書かれているのは番地の表示だけ。


この建物のいちばん上の階、4階の窓のどれかがデュラスの住居。


サン・ジェルマン・デ・プレ教会での葬儀は教会の外まで人が溢れたという。デュラスの柩の左右にはヤン・アンドレアとデュラスの1人息子のジャン・マスコロが付き添った。その後突然の冷たい雨の降りしきる中、デュラスの柩はモンパルナス墓地へと運ばれ埋葬された。

ここでもう一度、デュラスのお墓に立ち寄った時のことを思い出してみたい。しばらく人が訪れた形跡も見られず殺風景な様子であったデュラスの墓石に刻まれたMDの頭文字。そこに1人眠るデュラスの姿に孤独というものの正体を突きつけられたように思った自分。

しかしその孤独というのはいったい何を指すものなのか。

デュラスとヤンの関係にしても2人は一緒にいても愛し合っていても絶えず孤独を感じていたという。

とするなら、あのシンプルすぎる簡素な墓のデザインがデュラスの意思であり何かを表そうとしているかのように思えても不思議はない。

これは私なりの結論と言っておく。

墓石はデュラスにとって<私は此処に眠っています>という単なる目印のようなものに過ぎないのかもしれないと。

作家にとって死んだ後はその作品がすべてなのだ。
肉体は滅びても作品は永遠に生き続けることができる。私たちの心を満たし私たちの一部となって…。

最後にデュラスの愛した言葉、葬儀の際に朗読された言葉を記しておこう。
今もデュラスは墓石の中で口ずさんでいることだろう。


空の空なるかな。
万事(みな)空にして、風を追うが如し

旧約聖書『伝道の書』 第一章より

この二つの文章が世界のあらゆる文学を産み出している
(マルグリット・デュラス )

追記として


後日、モンパルナスを案内してもらった例の知人から聞いたところによれば、あれから再び墓地を訪ねた際にデュラスの墓にもふと立ち寄ったら、墓石は手入れが行き届いた様子で花も手向けられていたという。
それがいったい誰の手によるものかは謎であるが……。



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