見出し画像

パラスポーツが「主語」を変えてくれた

今年の4月、大学のパラスポーツに関する授業で、香川県高松市で開催されたジャパンパラ陸上競技大会をオンライン観戦した。

画像1


「パラスポーツ」は、広く障がい者スポーツを意味する言葉で、今は、障がいの有無に関わらず同じ一つのルールで行うスポーツという文脈で使われることもある。そして、パラスポーツの多くの種目では障がいの種類や程度に合わせてクラス分けがなされている。例えば、陸上競技や水泳では、そのクラスごとにレースが行われている。

義足でジャンプする走り幅跳びでは、選手たちが一つの試技ごとに一喜一憂したり、選手同士でアドバイスをしていた。また、T20(知的障がい)800メートルでは、それぞれの選手が戦略を練ったレース展開をして、最後は体一つの差で勝敗が決まった。そして、その白熱した戦いを物語るように、レース後すぐに選手はトラックに思わず倒れ込む。

僕は観戦をしていて、思った。
「思ったよりはやいな。思ったよりすごいな」と。

そして、同時に自分に違和感を覚えた。
「思ったより」って?
「思ったより」って感じる自分というのは、どういうことなのだろうか。

どうやら僕は「パラスポーツは、障がい者がやるものだから、リハビリの延長だから、趣味感覚でしているものだから、スポーツではない」というイメージを持っていた。僕にとっての、「スポーツ」とは、もちろん趣味や娯楽の意味もあるが、「競技者が意地や努力をもとに他者だけでなく自分とも戦い、見ている人に感動を与えるもの」だった。それは、「障がい者」ができるものではないと思っていたのである。言い換れば、パラスポーツと障がい者のパフォーマンスを過小評価していたのだ。

しかし、僕は、パラスポーツを見て「感動」していた。
800mの決勝では一人の選手が最初から引っ張って、二人がそれについていくという展開だった。そして、ラスト200メートルで2番手が追い上げ、1位の引っ張っていた選手に近づいた。そこで2位選手はスパートかけて追いつき、追い抜こうとするも、1位の選手は最後の意地でそれを阻む。最初から引っ張ってリードを守り切る選手と最後200メートルに懸けた選手の意地のぶつかり合いが見えた。この勝負に僕の気持ちは昂った。そして、両者の意地が見えた走りにエネルギーをもらった。そこにあったのは「障がい者」の気持ちのぶつかり合いというよりは、僕がスポーツを目にしたときに心を突き動かされる、「ひと」の気持ちのぶつかり合いだったのだ。

僕は、言葉では「パラスポーツ=スポーツの一種」と学んできて理解しているつもりだったが、あまりしっくりきていなかった。しかし、今日のパラスポーツを見て、パラスポーツは「スポーツ」だと言葉なしに肌感覚として実感できた。

自分がパラスポーツと障がい者のパフォーマンスを過小評価していたのは、競技者を「その人」ではなく「障がい者」として捉えていたからだろう。この観戦を通してパラスポーツを見て競技者を「障がい者」ではなく「〇〇選手」と思うようになった。自分の中で「両足義足の選手が6m跳んでいる」から「〇〇選手が6m跳んでいる」と主語が変わったのだ

夏合宿2018🌻_210512

この主語の変化は、僕が競技者を名前ある一人の「ひと」としてその人を捉えたことの表れなのだろう。そして、この変化は、言葉を介さずに、パラスポーツがもたらしてくれた。今回、観戦を通して、パラスポーツには、「スポーツ」として、人の心を動かし、見ている人に「障がい者」ではなく、一人の「ひと」としてその人を捉え直させてくれる力があると知った。このようにきっと、「パラスポーツ」には、まだまだ多くの人が気づいていない力がたくさんあるのだと思う。

written by しょう

※掲載している写真の一部は2019年度以前のものです。

#スポーツ観戦記 #最近の学び #大学生 #早稲田大学 #パラスポーツ #パラリンピック #ボランティア



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?