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【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #13

第2話 延長線上の哀歌――(11)

 それから期日まで、ピアノの練習は滞りなく行われた。
 幸いにして、この三日間は校内で目立った心霊トラブルもなく、アサカゲさんが途中で席を外すこともなかった。開けた窓からは、春の麗らかな風が吹き込み、ピアノの音もそれによってさらに弾んでいるように聞こえた。
 オオモモくんの演奏は、加速度的に上達していっている。ユウキさんの指導がそれほど的確なのか、期限を決めたことが理由なのかは、わからない。ともあれ、円満に終わりを迎えることができそうで、なによりである。
 それと、オオモモくんの家にある祠の件も、彼がしっかりと掃除とお供えものをしているらしく、俺の目から見ても、ユウキさんの足元に巻きついているものは、徐々に毒気を抜かれていっていた。
 なにもかもが、順調に進んでる。これは一重に、それぞれ為すべきことを確実に為し、こつこつと実績を積み上げてきたが故の成果だろう。
 だから。
「ねえ、俺、本当にここに居て良いの?」
 最終日の十七時半過ぎ。
 旧校舎音楽室内に用意された椅子に座り、俺は本日何度目かの確認をした。
 左隣にはアサカゲさん、さらにその向こうにはユウキさんが、俺と同じように椅子に座っている。なお、現在オオモモくんはトイレへ行く為、離席中だ。
 最後は発表会形式にするらしく、こうして席を設けられたのだが、俺だけ場違いな感が否めない。
「先輩ら二人が良いっつってんだから、大人しく座ってろよ。往生際が悪いぞ、ろむ」
 アサカゲさんは腕を組み、気怠げにこちらを向いて言った。
「でもさあ、俺はなんにもしてないわけだし……」
「そんなことないですよ」
 アサカゲさんの向こうから顔を覗かせ、ユウキさんは言う。
「ろむさんは、私たちと朝陰さんの橋渡しをしてくれました。それに、大桃くんに事情を説明するとき、空き教室に案内してくれたり、空気を和ませてくれたって聞いてます。ろむさんも是非ここで、大桃くんの演奏を聴いていってください」
「……それじゃあ、うん、お言葉に甘えさせていただきマス」
 満面の笑みを浮かべてそう言われると、頷かざるを得なかった。こうなれば、開き直って演奏会を楽しんだほうが良い。
「戻りましたー」
 そんな会話をしているうち、オオモモくんが音楽室の戸を開け、戻ってきた。少しだけ息が上がっているようだが、小走りに戻ってきたのかもしれない。
「おかえり。それじゃあ大桃くん、急ぐ必要はないから、用意ができたら始めましょう」
 ユウキさんの言葉に、元気よく首を縦に振って頷いたオオモモくんは、ピアノの前に座ると、譜面台においていた楽譜を手に取った。息を整えながら、楽譜に視線を落とす。指先でそっと音符をなぞりながら僅かに顔を綻ばせる頃には、すっかり息も落ち着いてきていた。
「――それでは、大桃みなと、演奏曲は『きらきら星変奏曲』。聴いてください」
 オオモモくんは俺たち三人に視線を送りつつそう言って、小さく息を吐いてから、演奏を始めた。
 『きらきら星変奏曲』。
 一七七八年にモーツァルトが作曲したこの楽曲は、当時フランスで流行していたシャンソンである「Ah, vous dirai-je, maman」――直訳すると「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」を、ピアノ用に編曲したものである。確か、モーツァルトの死後に童謡として『きらきら星』が広く知られるようになった為に、この楽曲のタイトルも『きらきら星変奏曲』になったのだったか。
 曲にまつわるあれこれを思い浮かべながら、オオモモくんの演奏に耳を傾ける。
 緊張している所為か、音色は少し固いような気もするが、音のひとつひとつを丁寧に紡いでいく。第五変奏の終わり頃、僅かに鼻をすするような音が混じった。けれどオオモモくんは演奏の手を止めない。曲はあっという間に中盤を過ぎ、終わりへと向かう。最後まで音は途絶えず、鼻をすする音は、もうしなかった。
 名残惜しそうに最後の一音まで弾き終えると、一瞬、真空のような静寂があった。圧倒、感動、嘆賞。そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
 その静寂を一番に破ったのは、ユウキさんの拍手だった。
 俺からは、彼女の表情を見ることはできない。だが、これはオオモモくんがユウキさんの為に弾いた曲だ。どんな表情をしているかなんて、想像するまでもないだろう。
 ユウキさんに続いて、俺、アサカゲさんと、拍手の層は増していく。たった三人の観客と拍手。それでも、オオモモくんはとても満ち足りた顔をしていた。
「ありがとうございました」
 オオモモくんは立ち上がってピアノの前に移動し、そう言ってから頭を下げた。拍手は、オオモモくんが頭を上げるまで続けられた。
「すごいわ大桃くん、一度もつっかえなかった! 完璧っ!」
 ユウキさんは飛びつくような勢いでオオモモくんの両手を握ると、嬉しそうにそれを上下させる。すると、その振動でオオモモくんの中で堰き止めていたものが決壊したと言わんばかりに、彼の目からはぼろぼろと涙が溢れ出したではないか。
「せ、先輩が教えてくれたから、だから、僕でも弾けるようになったんです。弾けるようになるの、楽しかったし、嬉しかったです。ありがとう……ありがとう、結城先輩……」
 ありがとう、それから、ごめんなさい。
 オオモモくんはそう続けて、ユウキさんを抱き締めた。
 ユウキさんは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑顔になって、
「もう謝らなくて良いのよ、大桃くん。それよりも、素敵な演奏を聴かせてくれて、ありがとう」
と言って、オオモモくんの背に手を回した。
 彼女の足元に巻きついていたものは、吹けば飛んでいきそうなほどに解け、薄まっていて。俺の隣で、アサカゲさんの肩の力がほっと抜けているのがわかった。
「……そうしたら、朝陰さん。お願いできるかしら」
 抱き締めあっていた二人が耳元で二言三言言葉を交わした後、同時にその腕を解き。
 ユウキさんはアサカゲさんに向かって微笑んで、そう言ったのだった。
 窓の外に視線を遣っていたアサカゲさんは、ユウキさんに呼ばれると、ゆっくりと椅子から立ち上がり、ユウキさんの足元を指差した。
「大桃先輩の執着はほとんど解消されたみたいだから、オレがこれからやるのは、結城先輩を向こうに送る霊術だけな」
 向こう。
 冥界。
 幽世。
 言いかたはなんであれ、そこが、死者の魂が逝くべき場所であることに変わりはない。
「先に言っておくけど、オレにできるのは向こうに送るまでだ。本来死者が通るべき道のりを、ほんの少しショートカットするだけであって、結城先輩のさだめを変えるわけじゃない。向こうに行ったら、そこに居る連中の指示に従えば問題ないって話だ」
 オレは知り合いの死神からそう聞いている、とつけ足して、アサカゲさんは護符を取り出す。
「心の準備ができたら、この護符を掴んでくれ。これを持ったまま向こうに行くから、連中にはこれを見せれば、それで先輩の状況を理解してもらえる」
 ユウキさんは差し出された護符をじっと見つめ、それからアサカゲさんに向かって、言う。
「私、ずっと貴女のこと、勘違いしてたみたい。私たちの為に協力してくれて、本当に感謝してる。貴女はとっても優しい人だわ。それが全校のみんなにも知ってもらえるよう、祈ってる。ありがとう、朝陰さん」
 ユウキさんはそっとアサカゲさんの肩を叩き、それから、最後にもう一度オオモモくんのほうに視線を遣る。
 ばいばい、と小声で言いながら手を振り、そして、護符を掴んだ。
 ユウキさんの身体は、霧が晴れるように、一瞬にして消えてなくなった。アサカゲさんの手に握られていたはず護符はなくなっており、それが、彼女が成仏した証のようになる。
 いろいろあったが、なにはともあれ、これで旧校舎音楽室に居る幽霊の件は解決だ。
 俺はアサカゲさんに、一言労いの言葉をかけようと思ったのだが。
「う、うわああああーん、先輩、先輩ぃー!」
 突如、オオモモくんが大声で泣き始めたではないか。
 さっきもぼろぼろと泣いていたが、どうやらあれは、ユウキさんの手前、まだ格好をつけていたほうだったらしい。今は恥も外聞もなく、子どものように泣いている。
 だけど、俺はそれで良いと思った。
 本来ならあり得ない再会を果たし、そして、離別したのだ。大人だって難しいのに、高校生である彼が、すぐに感情の整理なんてつけられるはずもない。今回の一件で、どれだけ未練や執着が薄まろうと、人が亡くなって悲しいという気持ちまで消えるわけではない。
 生者の足は、否応なしに先へと進む。
 有限の時間の中で、ゆっくりと溶け合っていくしかないのだ。
「うんうん、今はたくさん泣いておきな」
 俺はそう言いつつ、オオモモくんの背中をさすってあげようと思った。
 だが、俺の手は彼の身体をすり抜け、空を切ったではないか。
「え? あ、あれ?」
 今、音楽室内はアサカゲさんの霊術により、俺も物に触れるようになっているはずではないのか。現にさっきは、椅子に座ることができたのに。
 どういうことだろうか、とアサカゲさんを見るが、彼女は彼女で、さきほどまで護符を握っていた手に視線を落としたままになっていた。
「ア、アサカゲさん」
 戸惑いつつ俺が声をかけると、アサカゲさんははっと我に返ったように俺を見た。
「なんだ? どうかしたか?」
「いや、あの、もしかして霊術って、もう解除しちゃってるのかなって思って」
「ああ。結城先輩が成仏したのに合わせて、解除した。だって大桃先輩にろむが視えてたところで意味ねえだろ」
「それはそうなんだけど……」
 目の前で大号泣している男子高校生を慰めてあげたいこの気持ちは、どこへぶつければ良いのやら。
「つうか、はは、大桃先輩、大変なことになってんな。こりゃあオレらの声なんて聞こえねえだろうな。良いさ、泣いとけ泣いとけ。そうすりゃ、少しはすっきりするだろうよ」
 言いつつ、アサカゲさんは俺に代わってオオモモくんの背中を擦った。
 いやにアサカゲさんが上機嫌な気がする。
 それは、ひと仕事終えたからというだけではなく。
 上機嫌の皮一枚下に、照れ隠しのようなものが見えたような気がした。
 俺は勝手ながら、アサカゲさんが自覚し得ないところで、ユウキさんからの最後の言葉に舞い上がっているのだろうと思うことにする。同時に、何故アサカゲさんが、怒りの感情表現だけが豊かなのかを悟ってしまったような気がした。

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