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【短編小説】突如現れた正体不明の女性と同居することになった「私」の話

『名無しの名無花さん』


 ある月曜日の朝、リビングで知らない人が家族と朝食を食べていた。
 両親はとっくに食事を済ませ、母は早々に仕事へ行く準備を、父は家族全員分の弁当の用意をしていて。それを横目に、兄はテレビを観ながらトーストに齧りついている。
 毎日代わり映えのない光景に、しかし今日は、異物が一人。
 その知らない人は、兄の正面の席に座り、同じように朝食を食べていたのである。
 見た感じ、二十代前半ほどの女性だ。胸元まで真っ直ぐに伸びる黒髪は、どんなヘアケアをしているのか訊きたくなるくらいに艷やかだ。髪色と同じ黒を基調とした服装は、ゴシック系やビジュアル系というよりかは、フォーマルなそれだ。しかし決して社会人としてそのまま出社はできないだろうと思わせる、なんとも個性的な服である。いや、その正面に座っている兄がまだ寝巻きなことも相まって、余計に際立って見えてしまうのだろうか。
 顔の雰囲気は、特別美人ということもなければ、不美人ということもない。もうメイクはしているのか、それとも素顔なのか、とにかくきめ細かい肌だな、と思う。それでも、雑踏の中に居れば簡単に紛れてしまう程度の、平均的な顔立ちだ。
 今は椅子に座ってはいるが、背格好は中肉中背。立ち上がっても、女子平均の私と同じか、それより少し高い程度だろう。
 なにもかもが平均的な、普通の人に見える。
 けれど、普通の人はある日突然現れて、さも当然のように家族に紛れたりなんてしない。ましてや、和やかに食事をしているだなんて、言語道断である。事前に誰か来るなんて聞いていないし、仮に私がそれを聞き逃していたとして、初対面であることに変わりはないのだから、まずは自己紹介くらいはして欲しいものだ。けれど彼女は、まるで『自分は以前からこの家族の一員です』と言った様子で、他の家族と同じように「おはよう」とだけ言ったのだ。
 知らない人なのに。
 家族じゃないのに。
「……誰?」
 私のこの一言だって、勇気を振り絞ってようやく出したものだった。
 家族全員が警戒しているならともかく、私以外はその人が我が家の日常に溶け込んでいることに、なんの違和感を覚えていないのだから、そりゃあ一言放つだけでも、勇気を総動員させる必要があった。
「どうした、詩帆しほ
 せっせと弁当を詰めていた父が、私の小さな声に反応して顔を上げる。
「まだ寝ぼけてるのか? まるで知らない人でも居るみたいな顔じゃないか」
 まさにその通りである。
 一言一句違えず私の表情から全てを読み取った父は、まさに親の鑑と言えよう。が、それを『寝ぼけている』と処理してしまったことで大幅に減点され、瞬時に普通の父へとその座を戻す。
「ほら、詩帆のぶんももうすぐできるから、早く食べなさい」
 言いながら、父は兄の隣の席に、私のぶんの朝食の品を置いていく。ホットココア、スクランブルエッグ、ベーコン、サラダ。そして、現在焼き途中の食パンも、じきに食卓に並ぶだろう。
 私の席は兄の正面のはずだが、そこが既に埋まっているから、別の場所に置いているのだろうけれど。そもそも、どうして私の席に知らない人が座っているのか、という話だ。
 この人は一体誰なんだ。
 どうして誰もこの人を不審に思わないんだ。
 目に見えて異常事態であるというのに、私以外の家族はいつも通りの朝を過ごしている。
 私は、私の頭がおかしくなったのではないかと、そう思い。
 あらゆることが怖くなって、その先、なにひとつ訊くことはできなくなった。
 父の料理は、いつもお店顔負けの美味しさを誇るのに。この日の朝は動揺のあまり、ほとんど味を感じることができなかった。

 それから、数日間に及ぶ観察の結果。
 突如我が家に現れた女性の名前は、名無花ななかということが判明した。とはいえ、私にはそれがどうにも偽名に思えて仕方がない。名無しの権兵衛の名前が「名無花」だなんて、あまりに露骨過ぎやしないだろうか。
 それでも、とりあえずはあの女性を、名無花さん、と呼ぶことにする。
 家族の会話から察するに、名無花さんは私の従姉妹であるらしい。少し前に――どれだけ探りを入れてみても、具体的な日付や季節さえわからなかった――療養の為、この透目町すきめちょうにやって来たそうだ。なお、どんな病気なのかも、この場合は当然というべきか、判然としていない。
 いつの間にか、名無花さんのぶんの食器も椅子も揃えられていて、名無花さんは客間で寝起きする。朝は家族全員が居る時間に朝食を済ませ、家を最後に出る父親が出発する前に、名無花さんも療養の為の散歩だと言って、父親の作ってくれたお弁当を持ってどこかへでかけて行く。夕方、誰かしらが帰ってくる時間帯に合わせて名無花さんも帰宅し、夕飯の手伝いをして、彼女を含めた家族全員で食卓を囲む。それが当たり前の日常になり代わっていた。
 家族と名無花さんの仲は良好だった。
 なんだったら、私よりも仲睦まじいかもしれない。その理由は単純明快、名無花さんはとにかく聞き上手なのだ。話者の求めるタイミングで相槌を打ったり質問をしたりというのは、誰もができるようでできない技術のひとつである。
 兄は私のふたつ上、現在高校三年生だが、思春期真っ只中とは思えないほど、名無花さんに対しては饒舌になっていた。やれ学校でこんなことがあった、やれ友達がこんなことを言っていた。そんな、私たち家族が普段訊いても答えてくれないようなことを、名無花さん相手にだけは話すのだ。
 二人が話をするのは、決まってリビングだった。どうやら名無花さんが、お喋りをするならリビングで、と取り決めを行ったことが理由らしいが、おかげで、両親はそれを遠巻きにそれとなく眺めているだけで、息子の近況を知ることができる。これにより、両親から名無花さんへの好感度はさらに上がっていった。
 私は、ただただ怖かった。
 どんな方法を使って、私の大切な家族を洗脳したのだろう。どうして私だけがその洗脳にかかっていないのだろう。以前だって笑顔の絶えない素敵な家族だったのに、今はなんだか、仮面を貼りつけられているような、ぎこちない空気が流れていて、居心地が悪い。
 本当なら自分の部屋に引きこもって、名無花さんが居なくなるまでじっと耐えていたかった。けれど、自分の居ない空間で自分の話をされるのは、もっと嫌だった。両親が名無花さんに気を遣って私を下げるような発言をし、名無花さんがそれを嗜める。そんな反吐が出そうになるやり取りが階下で行われるかと思うと、精神衛生上よろしくない。だから私も、リビングでの家族団欒にはいつも通り参加していた。
 名無花さんは、私にも話題を振ってくる。
 けれど私は、最低限の返事だけで済ませて、極力彼女と会話を成立させなかった。そうすると両親が私を注意してくるのだが、そのときの表情のほうが人間味を感じられて、その瞬間だけ、私は僅かに安堵するのだ。
 これはきっと、子どもの頃に観た、家族がいつの間にか人形に置き換わってしまったというあらすじの映画に起因する恐怖なのだろうと思う。子ども向けの映画ながら、あれは本当に怖かった。映画の通りの設定であれば、本物はどこか別のところに居るのだろうけれど。残念ながら、というべきか、この家に居る家族は間違いなく生きている人間で、どうしようもなく本物だった。だからこそ、恐怖と不安が日々加速していくのだ。

 名無花さんが我が家に突如現れてから、六日が経過した。
 土曜日はちょうど友達と約束があって外にでかけていたが、今日は、なにも用事がない。いつもなら、家族で適当にテレビ番組を観たり、サブスクで映画やドラマを観たりするのだけれど、今日だけはそれに参加する気にはなれなかった。だってリビングには、名無花さんが居る。日に日に増す違和感に耐えきれなくなって、自分の居ないところで吐き気のする会話が行われていようと構わないと意を決し、私は適当な用事をでっち上げて外出していた。
 どうしよう。
 この一週間、そればかりをぼんやりと考える。
 そんな言葉を脳内に満遍なく行き渡らせたところで、狙い澄ましたタイミングで誰もが納得するほど素晴らしいアイディアなんて、思いつくはずもない。現状に対する不満と恐怖、そして無力感だけが『どうしよう』に詰め込まれて積み重なっていく。
 ぼんやりと目的地も決めないまま歩き出し、しばらくして辿り着いたのは、家からちょっと離れた場所にある小さな神社だった。
 この町の神社は、どこも全て綺麗に管理されている。そのおかげだろうか、空気も他より澄んでいるような気さえするのだ。きっと溜まりに溜まった心労を、ここに来ることで少しでも癒やしていけば良い、というカミサマの思し召しだろう。私は鳥居を潜って、お賽銭箱に小銭を投げ入れてお参りを済ませると、境内の端にあるベンチに座った。
 どうしよう、と再び同じことを考え始める。
 これまでの人生、私は家族のことが好きで、それが当たり前だった。こんなに嫌悪感を抱くのは、私の人生始まって以来初めてのことで、どう対処したら良いのか、皆目見当もつかない。家族を、嫌いにはなりたくないのに。
「――『あれ』は、そのうち居なくなるぞ」
 と。
 頭上から、声がした。
 それは私より身長が高い人間から放たれた音にしては、随分と遠く。
 それだけで、私は声の主がわかってしまった。
「……スキメ様?」
 見上げてみると、案の定そこには、身の丈三メートルほどの女性が、私を見下ろしていた。
 スキメ様。
 それは、大昔にこの町の大元を造ったとも言われるカミサマみたいなひとで、今もこうして透目町を見守ってくれている。その常識外れな背丈からもわかるように、このひとは人間ではない。数々の不思議な力を持っていて、時折人前に現れては、気まぐれのように助けてくれたりするのだ。……いや、そういえばこの前、老舗和菓子屋で復刻品が出たとかで、張り切って上限数まで買い込んでいたという目撃情報を聞いたような気もする。まあ、それくらい人間に寄り添ってくれているカミサマなのだ。
御主おぬし乙村おとむら詩帆だろう? いやはや、此度こたびは災難だったな」
 慈悲深く微笑んで、スキメ様はそう言った。
「あ、あの、スキメ様は知ってるんですか? 今、ウチでなにが起きてるのか」
 私の正面に回り、指をぱちんと鳴らして植物の椅子を生成しているスキメ様に、私は尋ねた。
「ああ、知っている」
 できあがったスキメ様専用サイズの椅子に腰掛けて、スキメ様は言う。
「御主の家には今、次元の旅人が居るのだろう?」
「次元の、旅人……?」
「なんだ、本人から聞いていないのか」
「こ、怖くて、会話らしい会話は、全くしてないんです……」
「ふむ、確かに人間の感覚では、あれは不気味に感じるのだろうな」
 少しの間、顎に手を当てて考えるような仕草を取っていたスキメ様は、そうさな、と話を続ける。どうやら、説明してくれるらしい。
「次元の旅人というのは、そう言えば格好はつくだろうが、つまるところ、ただの迷子だ。あれらは世界から世界へ渡る力を持っていて、一定時間が経過すると、強制的に別の世界へと移動する。旅人にとってのかすがいが居る世界が見つかるまで、気が遠くなるような時間をかけて、旅は続くそうだ」
「世界から世界っていうのは……?」
「御主の年頃でもわかるように言い換えるのであれば、そうさなあ――異世界、或いは、並行世界と言ったところだろうか」
「異世界……並行世界……」
 この町には、特殊な能力を持つ人間がそれなりの数存在している。だから名無花さんもその類だろうとは思っていたが、思いの外規模が大きく、スキメ様の言葉を飲み込むのに多少の時間を要した。
「あれの褒めるべきは、自然と周囲に馴染むという点だろうな。まるで以前からそこに居たかのように記憶を改竄し、日用品も当然のように出現させる。だが今回、御主はどういうわけか、その記憶の改竄の対象にならなかった」
 スキメ様が、じっと私を見つめる。
 私の顔を見ているというよりかは、その奥にあるなにか別のものを観察しているような目つきだ。きっと、スキメ様にしか見えないなにかがあるのだろう。
「御主には特段能力はないようだが……ふむ、あくまで偶然による例外か」
 果たして、スキメ様による状況判断はあっという間に終わり、結論に達する。
「あれは基本的に無害だ。故に、儂も次の世界へ移動するまで放置している。御主にとっては災難だろうが、せいぜいあと数日の辛抱だ。ふふ、そうだ、頑張っている御主に、ちと早いが褒美をやろう。御主、和菓子は食べられるか?」
「は、はい。大丈夫です」
「そうかそうか」
 嬉しそうに口角を上げながら、スキメ様は左手の人差し指をついっと回す。すると、その指先からどら焼きがふたつ出現した。続いて、既にお茶が注がれているらしい湯呑がふたつ出てくる。それは空中をすいすい進み、私とスキメ様の前でそれぞれ停止した。
「ありがとうございます」
 受け取ったどら焼きを見れば、スキメ様のお気に入りの和菓子屋さんの焼印が押されていた。ここのどら焼きは私も好きで、たまに自分のお小遣いで買っているほどだ。お茶に詳しくはないが、とても良い匂いがするから、きっと良いものなのだろう。
「あれをあまり怖がってやるなよ」
 お茶を一口飲んでから、スキメ様は言う。
「この町には異能力者が多く居るが、ほとんどの人間はその能力を掌握し、自身の管理下に置いている。しかしあれは、言わば成り損ないなんだ。この町の異能力者ほどの能力は持たず、かと言って、無能力の人間でもない。加えて、居場所のない生き物だ」
「どうして、そんなことになったんでしょうか……?」
「因果の収束、或いは、発散の結果だろう。なに、人間には観測できない事柄だ。誰が原因でそうなったわけではない。ある種、なるべくしてなった、と言ったほうが良いものだ」
「はあ……」
 スキメ様が言うからにはそういうものなんだろう、と思いつつ、どら焼きを一口かじる。慣れ親しんだ大好きな味が、口の中に広がっていく。こうして落ち着いてなにかを食べるのは、なんだか久しぶりな気がして、涙が出そうになった。
「世界を渡る能力を持つ人間というのは、なかなかどうして面倒な因果を持っているやつが多くてな。この間も、並行世界からこちらに来て、帰れなくなった男が居てな。旅人の上位置換の能力だというのに、実にもったいない。だが幸い、ちょっとした縁が奴の鎹になって、旅人にならずに済んだのだ。面白いだろう? これだから人間から目が離せなんだ」
 身体の大きなスキメ様は、私が何口もかけて食べるどら焼きを、ぺろりと一口で食べ終えてしまう。そうして再び人差し指を回し、おかわりを出現させていた。
 そんなスキメ様を眺めつつ、私はなにかを言おうとして口を開き、しかし、結局それを言葉にすることなく、お茶を飲んだ。うん、このお茶、思った通り、すごく美味しい。
「うむ、御主はそれで良い。手の届かないところにまで干渉して溺れる愚か者でなくて、儂は安心したよ。どら焼きもお茶も、美味しいか?」
「……美味しいです、すっごく」
 スキメ様の口調は、明らかに幼子に対するそれだったが、このひとからしたら、高校生も中年も老人も、大して差はないのだろう。等しく『人間』という生き物でしかない。
 スキメ様はあくまでもカミサマみたいなひとであって、断じて人間ではない。それは言わば、存在からして同族ではないと一線を引いていることを意味する。透目町で暮らすということはどういうことかを、小さい頃から耳にタコができるくらいに言い聞かせられてきた。だから、このひとに「人間の観察って、なにがそんなに楽しいですか?」なんて、分不相応なことを訊くなんて、あってはならないのだ。

 結局、スキメ様は夕方まで私と一緒にお喋りにつき合ってくれた。
 このひとにもやらなきゃいけないことのひとつやふたつ、あるのではないかとも思ったけれど。スキメ様がこの町を見守ってくれているのは、役目や義務ではなく、彼女の興味関心からくるものだ。今日の関心が私に向いていたから、私とお喋りをした。たぶん、それだけだ。それに、長い年月を生きているスキメ様の話は徹頭徹尾面白く、ときに為になる話もあり、本当に楽しかった。
 たった一週間、されど一週間。家族とろくに話をしない時間が、私にとってどれだけストレスになっていたのかを、改めて認識したような気がする。
「さて、御主はそろそろ家に帰れ」
 綺麗な夕焼け空を見上げながら、スキメ様は言った。
 家に、帰らなくてはならない。
 大好きな家族と、知らない人が居る、今は不気味なあの家に。
 ごねたところで意味がないことはわかっている。それに、帰宅時間が遅くなれば両親は心配してくれるだろうけれど、決してそういうことがしたいのではない。
「……そう、ですね」
 覚悟を決め、私はベンチから立ち上がった。
 そうしてスキメ様に軽く頭を下げる。
「スキメ様、今日はありがとうございました。ばいばい、またね」
 今日一日でたくさんお喋りをしたからだろう、別れの挨拶は友達にするような、気さくなものが口から飛び出した。
 スキメ様はそれを無礼だ不敬だと言うこともなく、柔らかく微笑んで、
「ああ、気をつけて帰れよ」
と言って、手を振ってくれた。
 ――せいぜいあと数日の辛抱だ。
 スキメ様が言ってくれた言葉を頭の中で反芻しながら、歩みを進める。
 名無花さんが居る生活に終わりがあると知れて、本当に良かった。終わりがあるなら、まだ頑張れる。
 名無花さんが『次元の旅人』と呼ばれる存在であることがわかったところで、彼女に同情はしない。この一週間、ずっと怖い思いをさせられたのに、そんなことを思えるほど、私は善人ではない。
 私は、ただ願うばかりだった。
 どうか、私の気が狂ってしまう前に居なくなって、と意地の悪いことを。


 私が帰宅すると、名無花さんは当たり前のように、夕飯を作る母の手伝いをしていた。この主張の強いにおいは、カレーだろう。だけどそれは、先週末にも食べたはずだ。我が家の料理のレパートリーは、両親が二人とも調理スキルがあることもあり、多いほうだと思っている。だからこそ、今夜のカレーは、あまりに間隔が短すぎやしないだろうか。そう思うが、料理のできない人間が外から文句を言うのは、良くないことである。
 それに、私は母の作るカレーが好きだ。
 父の作る料理が、分量通りの正確性から作り出される、お店顔負けの料理なのであれば。
 母の作る料理は、長年の勘による目分量から作り出される、ほっとする料理なのである。
 私は夕飯ができるまでの時間は、自室で宿題を片づけていた。しばらくすると、階下から「ご飯だよ」と声がかかる。私と兄がそれぞれの部屋から出て、食卓につくと、家族全員で手を合わせて「いただきます」をした。
 この異常な食卓も、すっかり板についてきてしまったものだ。
 早く終わりが来れば良いのに。
 そんなことを考えながら食べるカレーは、いつも通りの味つけが施されていて間違いなく美味しいはずなのだろうけれど、普段と比べるとなんだか味気ないようにも感じられた。加えて、食事中の会話で、今夜の献立がカレーになったのは、名無花さんのリクエストによるものだったということが発覚し、我が家のカレーがけがされたような気分にさえなった。
 夕飯を終え、私が食器を洗って、それを兄が拭いて片づけている間に、名無花さんがお風呂掃除を済ませる。お風呂が沸くと、挙手制で順番に入浴を済ませ、終わった人から順番にリビングでの団欒に加わっていく。今日は私が生まれる前に公開した映画が放送されていて、CMが入る度に両親が当時の思い出を語ったり、映画の解説や舞台裏の話なんかをする。私たち兄妹はいつもそれを、ふうん、と生返事ばかりしているのだが、今夜は名無花さんが、それに熱心に相槌を打っていた。
 あっという間に映画が終わり、少々の感想戦を挟んだのち、寝支度を整えると、各々寝室へと消えていく。私も同じようにして寝る準備を整えると、階段を上って、自室のベッドに倒れ込んだ。
 この約一週間、精神的には参っているものの、身体のほうは特に異変はない。今日だって、スキメ様とお喋りをしていただけだから、平日よりも身体の疲労感は少ないくらいだ。家族がみんな床に就くから自分もそれに倣っただけで、電気を消して横になったところで、眠気が全く来ない。頭から布団を被って闇を深くしてみたところで、それは無駄に終わった。
 だが、明日は月曜日で、また新たに一週間が始まる。夜更かしをするわけにはいかない。早く寝ないと。寝ないと。寝ないと。そうやって自分に暗示をかけていた、そのとき。
 コン、コン、コン、と。
 私の部屋のドアをノックする音があった。
 力強さはない。あくまで控えめで、あわよくば起きてほしくないとさえ思っていそうなくらい、弱々しいノックだ。
 ノックの主が誰かは、なんとなくわかっていた。
 だからこそ、迷う。
 だが、私がノックに反応して良いものかどうか決めあぐねているうちに、かちゃり、とドアが開いた。部屋主の許可もなにもあったものじゃない。それなら最初からノックなんてしなければ良いのに、と思うが、ノックに返事をせず居留守をしようとしていた手前、文句を言いに身体を起こすのもばつが悪い。
「……詩帆ちゃん、寝てる?」
 消え入りそうなほど小さな声で私に話しかけてきたのは、名無花さんだった。
 逡巡に逡巡を重ねているうちに状況はどんどん進んでいき、その結果、私は寝たふりを続行することしかできなくなってしまった。
「わたし、今夜でさよならなの。だから、たぶんわたしがどういう存在か知っている貴女に、お別れを言いに来たのよ。一方的に喋ることになっちゃうけれど、ごめんなさいね」
 名無花さんは、私が寝ているからといって退出するわけでもなく、それどこか、枕元まで近づいて来て話し始めたではないか。いよいよもって、起きることができない。私は布団にくるまったまま、名無花さんの話に耳を傾ける。
「わたしは次元の旅人と言って、いろんな世界を渡り歩いているの。滞在期間は、いつもだいたい一週間くらい。世界に繋ぎ止めてくれる人が居なければ、また次の世界に飛ばされて、おんなじことの繰り返し。まあ、この世界については、初日にスキメ様とかいう上位存在が目の前に現れて、いきなり『この世界に御主にとっての鎹は居ないぞ』なんて言われてね。でも実際その通りだったから、後半はほとんど町の観光をしていたんだけれど。良い町ね、ここは」
 この一週間、名無花さんは聞き役になっていることのほうが多かった。
 不自然に思われない程度に、しかし絶対に自分のことは語らない。それを徹底していただろうに、もう別れ際だからだろうか、堰を切ったように名無花さんは話す。
 それはなんだか、子どもが親にその日のできごとを聞いて欲しくて堪らないように見えて、なんだか胃の辺りを握られたように切なくなる。
「旅人には魅了の魔力みたいなものがあって、どの世界へ行っても、みんなわたしを旧知の仲の人間のように接してくれるし、親切にしてくれるの。だけど貴女には、どういうわけかそれが効かなかった。わたしの長い旅路の中で、こんなこと初めてだったものだから、とても驚いたわ」
 常に警戒する態度。
 不気味なものを見る目。
 それはわざわざ言及するまでもなく、絶望的なまでに最悪な態度だ。
 けれど名無花さんにとってそれは新鮮だったからだろうか、その口調からは隠しきれない喜びが滲み出しているようにも聞こえる。
「だからわたし、貴女にお礼が言いたくって。直接言えないのは悲しいけれど、それでも言わせて頂戴ね」
 そうして名無花さんは言葉を区切り、深呼吸をする。
 それだけ念入りな前準備をして、一体どんなことを言うのかと思いきや。
「ありがとう。楽しかったわ」
 と。
 名無花さんの口から放たれたのは、ひどくシンプルなものだった。
 それが、心の底から思っていることなのだと。
 皮肉でもなんでもない言葉なのだと。
 その柔らかな声音で、わかってしまう。
「ふふ、気持ち悪がられておいて『ありがとう。楽しかった』は、我ながら変だと思うわ。だけどわたし、どれだけ周囲の人間を魅了できても、居もしないでっち上げの誰かにしかなれないのよ。そんな中、貴女はわたしをわたしとして見てくれた。突然現れた異物に対して、当然の反応を示してくれた。それが、途方もなく嬉しかったの。同時に、今までの自分があまりにも孤独だったのだと気づいたけれど、この世界では貴女が居たから、わたしは一人じゃなかった。だから、ありがとうね、詩帆ちゃん」
 孤独に気づかせてくれて、そして、孤独を癒やしてくれて。
 名無花さんはそう続け、そっと布団の上から私の頭を撫でた。その手つきがあまりに優しいものだから、心がくすぐったくなって、思わず身じろぎしてしまった。すると、あっという間に名無花さんの手は離れていく。
「……それじゃあ、ばいばい、詩帆ちゃん」
 そうしてベッドから足音が離れていき、ドアが開かれ、閉じる。夜中ということもあり気配を極力消そうとしている足音は、客間へと続いていくのだろう。
「……」
 私はというと、呆然としたまま動けずにいた。
 『次元の旅人』という存在とその能力については、事前にスキメ様から聞いていたから、いまさら驚きもなにもない。
 だから私がこれだけ放心状態に陥っているのは、そういった事実の羅列ではなくて。
 名無花さんからの感謝の言葉と、潔すぎる別れの言葉の所為だった。
 またね、と私なら口を突いて出そうな言葉もなかった。それだけ、彼女は別れに慣れているのだと、たったあれだけで思い知らされた。同時に、それを知ったところで、私にはなにもできない無力感に苛まれる。いや、私にはなにも特別な力なんて持ち合わせていないのだから、そもそもそんな悔しい思いをする必要だってないはずなのに。
 それなら、せめて私からも名無花さんに一言言うべきだろうか。それなら、なんて言えば良いだろう。
 そんなことを考えているうち、いつの間にか私は眠りに落ち。
 気がつけば、月曜日の朝を迎えていた。
 寝起きのぼやぼやとした思考回路で、昨夜のことを思い出す。
 果たしてあれは、現実だったのだろうか。名無花さんがドアをノックしたところからして、夢だったのかもわからない。部屋の中に置き手紙の類はなかった。名無花さんは、本当にあの一言を言う為だけに私の部屋を訪れ、部屋主は寝ているというのに、本人に届かない言葉を並べ立て、勝手に満足して行ってしまったのだろうか。
「……おはよう」
 リビングに行くと、昨日まであった名無花さんの椅子がなくなっていた。食器棚を見れば、彼女用としていた食器類がなくなっていることも確認できる。
 ああ、本当に居なくなったんだな。
 この一週間ずっと願い続けていたことが、ようやく実現したというのに、存外喜べない自分がいる。あの言葉がなければ、きっと今頃すっきりとした朝を迎えられていただろうに。
「おはよう、詩帆。もうすぐお前のぶんもできるぞ」
 台所に立つ父は、いつもと変わらない様子で四人分の弁当の用意をしながら、私の朝食の準備をしている。母はばたばたと身支度を進めていて、兄はのんびりとテレビを観ながら朝食を食べている。
 ああ、本当にいつも通りの朝だ。
 当たり前の日常が、こんなにも輝かしく見える日が来るだなんて、考えてもみなかった。
「ほら詩帆、早く食べなさい」
 父はそう言いながら、私のぶんの朝食を兄の隣の席に並べ始めた。
「ちょ、ちょっと、お父さん! そこは私の席じゃないでしょ」
 ぎょっとした様子で止めに入った私に、父は少し大げさじゃないかと眉を顰めながら、
「ああ、悪い悪い」
と、兄の正面の席に朝食の品々を置き直す。
「……お父さんさ、昨日の夕飯、なんだったか覚えてる?」
「おいおい、なんだよ急に。流石に昨日の晩飯は忘れないさ。カレーだっただろう?」
 一抹の不安を覚え、ふと父にそんな質問を投げかけてみたが、普通に普通の答えを返された。名無花さんによる記憶の改竄というのは、あくまで名無花さんが関わる場面に限定するもので、家族全員で囲った食事のメニューまではその限りではないということか。
「でもさあ、先週の日曜もカレーだったよな。カレーは好きだけど、ちょっと間隔短くない?」
 そう言って会話に入ってきたのは、兄だった。
 兄の指摘に、父も、確かになあ、と相槌を打つ。
「でもほら、確かお前が母さんにリクエストしたんだろう? どうしてもカレーライスが食べたいって」
「え? 俺はしてないよ」
「じゃあ詩帆か?」
「……私もそんなリクエストはしてないよ」
「ええ? でも母さんが『あんなに熱心なプレゼンをされたら、カレーにせざるを得なかった』って言ってたんだが。はて……?」
 リクエストをしたのは、名無花さんだ。
 ただカレーを食べたい気分だからリクエストしたものだと思っていたが、その並々ならぬカレーへの情熱は一体なんだろう。
「母さん母さん、昨日の夜、どうしてカレーにしたんだっけ?」
 リビングの隣の部屋にある化粧台でメイク中の母に、父は問いかけた。
 すると、少し考えるような間があってから、母が答える。
「えー? どうしてもカレーが食べたいって言ったじゃない」
「誰が言ったか、覚えてる?」
「え? ええと……? あれ、お兄ちゃんか詩帆じゃないの? なんか、『カレーって家によって本当に味付けが違うから、この家のカレーが食べてみたい』って……あれ、本当に誰がそんなこと言ったんだっけ」
 記憶を辿るように中空に視線を遣った母だが、その先にあった掛け時計が示す時間が、遅刻ギリギリを指していることに気がつくと、慌ただしく身支度を整え、弁当を引っ掴むと出勤して行った。
「……ま、母さんのカレーは好きだから良いんだけどね」
 父さんが、宙ぶらりんになった問題に適当なオチをつけて、以降、この話は有耶無耶になった。
 月曜日こそ、私以外の家族は生活の中に若干の違和感を覚えていたものの、それも加速度的に薄れていった。むしろ、カレーの件を覚えていたほうが奇跡的だったのだろうと、そう思えるほど。
 これは私の勝手な憶測でしかないが。
 名無花さんは、きっといつもその世界に滞在する最終日に、カレーを食べているのだろう。
 世界によって、家庭によって異なるカレーの味を堪能し。
 その味が自分の世界のものではないことも同時に飲み込んで、また次の世界へ旅立っていく。
 私という特異点でさえ、彼女の鎹にはなれなかった。それならきっと、その鎹というものは、スキメ様の言葉を借りて言えば、強い因果で結びついたなにかなのだろう。
 再会の約束さえできない、次元の旅人である名無花さん。
 それなら、私から言える言葉はひとつだけだ。
 どうか、お元気で。




※OFUSEにて後書を書きました。
 「名無花さん」について、本編中では書ききれなかった設定とかについて言及しています。


※スキメ様が作中で言っていた「この間も、並行世界からこちらに来て、帰れなくなった男が居てな」については、彼視点の物語がありますので、よろしければ是非に。


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