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私たちが世界を切り撮る理由

このエッセイは、【写真展】 -あの頃の君へ、これからの君へ-で展示される写真に込めた内容を、心の整理のために書いたものです。写真展では"真夏の国の哲学"という題名で展示されており、そこに100〜120字ぐらいのキャプションで記載されています。

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 試験の成績が良くても、教室で人気者でも意味は無い。
 そこは学校という狭い社会でしかない。

 学ぶべきものは、もっと広くて深くて、情熱的な哲学があって心地が良い。社会人になってから、海を越える度にもっと学びたいと思う事が増えてきた。誰にも何も言われずに自習して、身体中の隅々に知識を刷り込んでいく。すると、この目で焼き付けた情景を、点と点が線と線で繋がった高揚を、心に刻まれた衝撃を、何かの形で残したいと願う様になった。でも、その度に絵心が乏しい自分が悔しくて、パソコンでデザインを、型落ちのデジタル一眼レフで写真を撮る事に希望を探した学生時代を思い返していた。

 実はレタッチが苦手だ。
 多くの人が、Lightroom等のアプリを使って写真の色合いを自由に変えていく。目に見えた景色を、画面に映る自分の肌を、指で容易に変えてしまう動作に違和感を感じた。写真とは、今この瞬間を捉えて焼き付ける記憶を外部化する事。その記憶を、都合の良い様に書き換えている様に、もしくは眼下に映る現実を意図的に拡張している様に思えた。

 都合の良い現実を作り上げる事に正義を感じない自分と、綺麗に仕上げた世界に共感を集めた喜びに浸る自分とが葛藤し、その一方で画面に映る誰かの綺麗な写真に憧れを感じた。それらの写真を眺めながら、実際はどんな場所なのだろうとワクワクする自分や、自由を取り戻して広い世界へ行こうとする友人達の声、自分なりに懸命に撮った写真やレタッチに喜ぶ声を聞きながら、自分のやっている価値に気づいていく。

 誰かの内に秘める野心が誰かの写真と出会い、それぞれの点と点が繋がった時、その誰かの行動に繋がる事がある。自分の若さと可能性を信じて、不安を乗り越えて、小さくて大きな一歩を踏み出していく。老人的な言葉や説教より、1枚の写真は誰かを突き動かす事ができる。その世界を肯定して、誰かの背中を押す事ができる。

“あなたはこの世に生きるに値する”と言っているかの様に。

 拡張された現実でも、それが誰かの力になるのなら、それは大きな価値になる。世界のどこかを写した美しい写真を見て、落胆する人は誰もいない。美しい自分を見せられて、自分の可能性を信じて良いと思えた時、それを悲しむ人は誰もいない。写真は過去の記憶の様で、誰かの可能性を写している。


 無意識にそう信じながら、私たちはシャッターに指を置いている。


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