見出し画像

アートなんて意識高い人が見るもんでしょ?

「アートなんて意識高い人が見るもんでしょ?」

美術館に行くなら映画館にいきたい。
ずっとそう思っていたけれど、最近変わってきた。

美大出身でもなければ、クリエイターやデザイナーでもない。強いて言えば、高校の選択科目は美術だったぐらい。アートとは無縁に生きてきた。でも最近、アートには、世界の幅を広げる余白があると思えるようになった。

今を生きていると正解があるのは当たり前だ。
仕事では会社の方針や上司がいる。プライベートでも、家族を持って子どもがいることが常識とされる。SNSでは短時間で目をひくコンテンツが話題になり、映画や動画はアルゴリズムによっておすすめが表示され続ける。わからないことはAIが教えてくれるようになっていく。

気がつくと、自分じゃないものが埋め尽くしているような気がする。
自分が考えたわけじゃない。自分が選んだわけじゃない。自分以外の要素が増えすぎているのに、それが当たり前になってしまう。
そうして、自分の持っていたものと、埋め尽くされたものにズレを感じるから、生きることや働くことに苦しさを感じるのかもしれない。

だから、自分の感情や自分なりの見立てや解釈の余白があるアートに興味がある。
一つの作品を観察して、何を伝えたかったのかを考えること。自分はこう思う。こう見立てることができる。そうした対話を通じて、世の中の見方を広げる可能性がアートにはあるような気がする。

そんなことを考えながら、横浜で開催しているART  SQUIGGLEというイベントに行ってきた。


光の三原色を使った作品。光が変化しながら、立体を照らし影と色相が変化する作品。一見、同じような色でも、一つも同じ色にはならないらしい。
光の当たり方で影に色がつくなんて考えたこともなかったし、同じような日々の出来事も、微細な変化があり同じではない。そうした変化を日常でも取り逃がしていることを気付かされる。

Windows XPのPC画面をアイロンビーズで表した作品。ネットで誰かとつながりすぎた社会。あなたの名前は?という現実感のある質問が、ネットという仮想空間の中でバグを引き起こしたのかもしれない。エラーで引き延ばされたイルカは仮想空間という夢の終わりに泣いているようにも見える。画面から零れ落ちたアイロンビーズは画面を現すドットから、現実のビーズになっている。

今いる社会も、このアイロンビーズで示したドットのように単体としては意味を持たないものが合わさることで形を作っているのかもしれない。作られた大きな何かではなく、単体では意味のない小さなものに目をむけられるようにしたい。

サボテンを使った建材や家具のアート作品。
これは、本当に解説読むまで何を言いたいのか感じ取れなかった。サボテンが観葉植物として普及している現代で、サボテンを家具にすることで別の可能性を示唆する。サボテンに穴をあけて住んでいる鳥類がいたり、南米では建材としても使われているらしい。

動物という他者の視点、南米という空間の視点、サボテンのルーツという時間軸の視点。そうした相対化によって、目の前の当たり前に別様の可能性を示すことができるのかもしれない。

円状に置かれた無数の石。この一角だけ円柱形の薄暗い個室の中に作品が展示されている。暗い部屋の中で、白樺の線香の匂いとこの作品だけがぼんやりと浮かび上がっている。
石の形や色、配置は微妙に異なり、砂粒は光の角度で少し輝く。

禅や枯山水、寺社仏閣、静けさ、陰影のような日本の面影を感じられるこの作品に、一番心を揺り動かされる。

石の並びは、波紋のようで、無数の宇宙に浮かぶ星のようにも見える。ふと部屋の中から見上げた倉庫の天井が箱庭の中から見た月のような気がした。

認知の仕方次第で、この強い文脈が跋扈する世の中でも解釈は自由であり、世界は簡単に広がるのかもしれない。

そついう可能性をアートは気づかせてくれるから、人を惹きつける。

この作品の解釈はこうだという正解ではなく、作者の伝えたい意図すら関係なく、自分がどう思うか、何を感じ取ったのか。

そんな見えない見方、世界の幅を広げてくれる。
それは時間のゆとりがないと受け取ることができない。
答えを押し付けられることの多い社会だからこそ、余白のある、自分で意味を添えられる余白のあるものが最近は好きなのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?