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考察:芸術と美と哲学

ぼくは哲学もそうだけれど、芸術についても理解したいと思っている。面白いからだ。

今は絵を描くことに熱中しているけれど、これまでは陶芸のことに熱中した。
出来上がりよりも「粘土」に興味がわき、自分で採取もし、いろんな粘土を「原土」で手に入れた。

何でこんなに粘土に惹かれるのかはよくわからないが、今も強い関心がある。
粘土は美しくないが良い匂いがする。そんな粘土の焼き上がりは釉薬との相性が合うと素晴らしいものになる。

美しいとは違う。魅力的というとさらにわからないが強く惹きつけられるものがある。これが芸術の理解なのだろうかとふと思う。

美術評論家のハーバード.リードは著書の中で、
「われわれはいつも、美しいものはすべて芸術であるとか、またすべての芸術は美しいとか、あるいは美しくないものはすべて芸術ではないとか、また醜いものは芸術の否定であると仮定している。」
と言っている。
美しいことは良いことなのかもしれないが、それが芸術だというなら芸術など一部の人が楽しむ趣味のように思う。

「美しくないからイヤ!」という話は多い。陶芸は美しいものばかりではない。土の塊だからだが、だからといって芸術的な価値がないとはいえないのではないだろうか。

リードは「芸術と美とを同一視してしまうことが、いつも芸術の鑑賞を困難にする原因となっている。」とも言う。
そして、「芸術は必ずしも美ではないからである。」としている。この意見に強く賛同する。

絵画には「光」をうまく取り込むと「芸術だ」と言う人もいるが、「宗教的な解釈をすればね」ということだ。

詳しくは述べようとも思わないが、これまで芸術には「宗教的な解釈」を抜きには語れないのではないだろうか。
バッハの作った音楽のイメージはとてもわかりやすい。「降り注ぐ神」である。

ぼくは、芸術は人間の創造する可能性なんじゃないかと解釈している。
そうすると、芸術の鑑賞の幅は広がり、人間理解を容易にするからだ。

芸術には哲学的な思考が不可欠であり、思考は人間の特徴でもある。すなわち、芸術は人間自体なのかもしれない。
だからこそ、固定されたものに心を動かされることはなく、いつも新しいものに惹きつけられるのだ。それは人間の可能性を示してくれるからではないのだろうか。

難しく解釈するとこんな説明になるが、芸術作品といわれるものを鑑賞して「ここから何がいえるか」と問うてみると意外に楽しいかもしれない^_^

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