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哲学:「普通」から考える哲学

ぼくは哲学を哲学の研究者のように難しい解釈ではなく、自分の観る世界を「どう考えるか」を考える。
普遍性の探究や神の存在、世界とかではなく、人間について考えたいのだ。
自分を知るには人間を知らなければならないと思うからだ。

日頃、誰しも考えていると思っているけれど、それは「思った」「感じた」といった心の動きを指していることが多い。

心を病んでいく人たちも「考える」ことで悩むよりも、「思う」「感じる」に悩むことの方が多いように思う。

ぼくは、悩みを解決したりお説教をしたり、マーケティングで物を売りたいと思ってnoteに投稿しているわけではない。考えることを考えたことを書きたいのだ。

当然のことながら「それは違うだろ!」と思われる方もいるはずだ。
それは、そう思ったのではなく考えたからその意見が生まれたということだ。尊重したい。

人間の特徴は「考える生き物である」というのは真実だ。
その特徴に従って考え、整理していくことが生きる上では不可欠だと思っている。
また、生き物であるいじょう「心理」というものがある。人間もその心理に流されるものだ。

買いたくないものを買わされ、思いたくないのに思わされるものだ。
心の煩悶はそういったことから生まれることが多い。

そのことについて考えるのは哲学だ。幸福か幸福でないかは、心の有り様によって決まるとも言われる。不幸感は自分の思うようにならないことが一つの原因だ。
さらに、その源を辿ると思い込みや期待ということになりはしないだろうか。

それを健常な思考によって解消すれば多くの煩悶は消えていくように思う。「健常さ」が要るのだ。

「在るようで無い」「無いようで在る」と言われるのはこの「心」のことではないのか。

と、こんなことばかり投稿していると「悩みあんの?」「そんな辛いの?」と思われがちだが、意外にも、ぼくには大した悩みがない。

こころを整理する習慣のおかげだと思う。

知らないことを知って、自分の足らないところを補うというのがぼくの趣味だ。

生物学的に限られた時間と能力の中で、経験できることは経験しようと思っている。これは「普通」のことだ。ぼくの哲学はそんなものなのだ。

いってる割には頭の中が整理できていない今日だ。

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