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哲学: 失敗について考える

何かの失敗や不幸感に遭遇すると「それはあなたを成長させるものです」といったもっともらしい話をする人がいる。

その話は本当なのか、何かを解決しているのかについて考えさせられた。

「失敗することは成長というお得な出来事ですよ」と、失敗を帳消しに出来るかのように言い換えていることがわかると思う。

人間の損得勘定を刺激しようというわけだ。

この場合、成長とは何のことかはわからないが、失敗は損ではないように思わせることで、もっともらしい話を作ることに成功する。

しかし、もっともらしいからといって真実とは限らないという話を思い出してほしい。

そういった話では、何かを変えることは出来ない。失敗を繰り返してしまうだけなのだ。

だからこそ、いつも同じ場面で躓き、同じ問題を乗り越えられずにいる。

「私は男運が悪くて…」といった例がそうだ。失敗は失敗でしかなく、成長とは全く関係がないことがわかる。

失敗したからといって、何かが向上するわけではない。思考が間違っているからだ。そう、失敗は選択が間違っていたことを示しているだけなのだ。

そして、本来なら失敗(不満)は次の選択を促すだけだ。その選択の答えが正しいかどうかはわからない。また失敗すれば次の選択を促さられるだけだ。

そうこうしているうちに正しい答え(満足)に行き着くかもしれない。しかし、それは成長したのではなく選択を繰り返した結果だ。

それを成長したと言えばもっともらしく聞こえ、正しい発言のように思えるが違う。言う方は楽だ。

ぼくがこういったことを言うのは、人の思考や行動の変化の実践は簡単ではないことがわかっているからだ。

思考を深めようとする人にとって、ぼくのこの意見は妥当だろうが、そうでない人にとっては何を言っているのかサッパリわからないと言われるだろう。

なぜわからないのかもサッパリわからないとしたら「失敗が成長」という言葉を安易に使うことには注意がいることがわかる。
もっともらしい話の受け売りには注意がいる。失敗が成長を促すとは助言としては使えない。

事実は「失敗は次の選択を促す」これだ。しかし、これには条件があって、熱意や執念がいる。これがないと心がペシャンコになる。

通常、失敗は失敗でしかなく、自信や自尊心までも奪うものだ。