見出し画像

哲学:「普通」の普通を考える。

ぼくは普通のことを大切にしたい。普通とは何なのかを真剣に考え、帰納的推論によって パタンを見出そうともしている。

普通は多くの人に嫌われる傾向にある。ありふれたことは嫌いなのだろう、ということがありふれている。

普通に従うことは「特別」なのだが、みんな気づかない。

特に若い頃は「普通の生き方」を嫌う傾向にある。「自分は特別である」という特別な心理に陥りやすく、実際に「特別である」と思い込む時期でもある。

しかし、その後は普通の人生を歩むものだ。それが「普通」なのだが普通は嫌われる。

実は、この普通という言葉の意味は重要なのだ。

普通の普通は健常だが、異常の普通は病的でもあるのだ。

病的な人の思考から生まれるものは普通でないことが多く、健常な人の思考から生まれるものは普通であることが多い。

天才という異常が生み出すものは普通ではないが、普通の人にとって特別なものと思えるかもしれないが異常だ。

ぼくはいろんな人を観てきたけれど、頑張って普通を目指すべきだと強く思う。

普通の普通を目指すことは、病的な普通になることよりもさらに難しいものだ。

「人間の特徴は思考だ」ということが本当なら、思考することが普通なのに、意外なことに思考することは嫌われる。

他人からの知識を暗記して披露することを良しとするが、これは人間の異常の普通だ。暗記なら人間以外の生き物でもする。

暗記は固定を目指し、思考は変化をもたらす。これは普通だが、心は病的になると変化しない。固定してしまうものだ。それが普通なのだ。

スポーツなどで向上していく人は、向上が当たり前の、普通の考え方を持っている。
向上しない人は向上しない人にありがちな普通の考え方を持っている。

変更しなければならないのはどちらかはわかるが、普通にできない人は多い。
能力が高いといわれる人は変更可能で、できない人は変更不可なのだ。それが普通なのだ。

「自分は特別である」という心理傾向は、できない人の普通の心理なのではないかと最近よく思う。

能力が高いといわれる人は、自分の能力をどこに注ぎ込むかを考えているものだ。それは年齢を重ねても変わらないのが普通だ。

こういった話は、心の安寧に特に重要なのにも関わらず伝わらないのが普通なのだ。どうしても「特別」の方へ目が向くからだ。
それが普通なのだとしたら、どう考え実践に移すだろう。それがわかればあなたは「特別」である。

最後まで読んでいただいた方には感謝したいと思います。

この記事が参加している募集

習慣にしていること

探究学習がすき