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学び:間違っていないか疑う哲学

「自分は間違っていない」「自分の選択は正しい」こういった思い込みは誰でもしやすいものだ。ぼくは何度もある。

後出しジャンケンで自分に都合の良い解釈はいくらでもできるが間違いは間違いだ。

可謬主義というのがある。

ドゥイッチュの言葉を借りれば、
「可謬主義者は、自分たちの最善かつ最も基本的な説明にさえ、真実だけでなく、誤解が含まれていると考えるので、そうした説明を良い方向へ変えようと努力する傾向にある」

「自分の意見に疑いを持つ」という話を、巷で耳にすることはないが、正しく考えるうえでとても重要だ。

「可謬主義は、過去の誤解を修正しようとするだけでなく、現在は誰も疑問に感じていない、あるいは問題だと気づいていないような誤ったアイデアを、将来的に発見して、変えたいと考えることである」

このことに成功するためには、常に学び続け完全に近づけようとする態度が要る。

「限りない知識の成長にの開始には、可謬主義が不可欠なのだ」

としている。

現在で正しいと思っていることは、将来に変更を余儀なくされる蓋然性があることを受け入れつつ、自分の意見を疑っておくことだ。

人間の知恵は微妙に変化していく。難しいことではなく、日常でもいくらでもあるはずだ。

仕事のやり方、料理の仕方、掃除の仕方、言葉の選択から服の選び方まで、変更する蓋然性はどこにでもある。

飽きることは変化することでもある。物事を絶対化しようとすることは健常かもしれないが、本気で絶対化できると思い込むと病的になるかもしれない。
以前、記事にした貫成人氏のいう『眺望固定病』に侵されてしまうだろう。

間違った世界観から生まれた思考というのは健常ではない状態である。そこから生まれるものが健常であることはほぼない。

健常でないということは「苦悩」を生むということでもある。理解されないどころか否定しかされない。

しかし、間違いを受け入れる態度があるなら、人間はそれを許容しようとするものだ。

一般的に生きる上で、間違うことは当然だと思っていた方がいい。
こう言うと「その話も間違っているかもしれないやん!」と言うかもしれない。確かにそうだろう。

しかし、ぼくが「これは絶対だ!」と言うと、受け入れ難い心理になるが、「ぼくは間違っているかもしれないが…」と言うと、受け入れてもいいとならないだろうか。

間違っているにしても、「どちらが有効か」という解釈でぼくの意見を理解してもらえないだろうか。

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