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哲学:哲学の有用性を問うのはもうやめた方がいい

相変わらず「哲学って何の役に立つの?」と問う人がいる。役に立たなければ学びたくないということなのだろう。
哲学が何かを保証するものだと思っているようだ。学校で勉強をし過ぎたせいなのだろう。

学問は探究する価値があるから学問だということは知っておいた方がいい。

みんなのいう「役に立つ」というのは「何者かに成れる」「何かを救う」「優秀さ」「金持ち?」「モテる?」のような功利的ことを求めているのだろう。残念ながらそういったことを手に入れることは出来ない。

むしろ、その反対に「何者にも成れないことを悟る」「優劣から離れる」「独立する」といったことなら可能だろう。
「じゃあいらない」となるかもしれない。

「考えることをどう考えるか」というのは心理学ではなく哲学の分野だ。

「考えることが好き!」と公言する人はままいるが、実は、考えるのではなく記憶することの方が好きなようだ。

「自分の意見を持つ」ということは大切だと言われるが、他人との比較を述べているだけが多い。哲学はそれではない。

好き嫌いをハッキリさせることは意見ではなく好みの話だ。こういったことを考えるのは哲学である。

学ぶことを「役に立つからする」というのであれば、哲学には向かないだろう。「たしかに」と思えるのなら脈アリだ。

考えるということは本能的ではあるが、磨き上げる努力は後天的なものだ。
このことが役に立つかどうかは自分で考えればいい。

だからもうこれからは「哲学は何の役に立つの?」と尋ねるのはやめたほうがいい。
この質問を投げかける人は「この人わかってないな」と切り捨てればいい。時間を節約するためだ。

1+1=2であることを、1+1=3を望んだからといって真実にはならない。

真理が人間の好みには関与しないのだということを考えると、哲学の存在が理解できるかもしれない。

権威付けが欲しい人には、C.S.パースの話を紹介しておく。
「哲学に専念している人の大部分は、人生における実践的な応用に供することを禁じるやいなや、哲学への興味をすっかり失うことであろう」
と言い、
「理論を追究しようとする者は、彼らに別れを告げなければならない」
こういうことだ。サヨナラなのだ。

権威がまだ足りないという人には、
「因果の法則が普遍的に働いているということを確信しきっている人は、出来事の進行に干渉する存在者という観念を一瞬たりとも抱くことはできない。」
と言ったA.アインシュタインの言葉を付け加えておく。

何かが助けてくれるのではなく、人間が「どう考えるか」は自分で切り開かなくてはならないのだ。
「役に立つの?」といった陳腐な質問が、甘えた役立たずだということがわかると思う。その時点で相手にしてはならない。
ちょっと怒っている^_^うそ

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