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演じる自分に疲れる自分

他人への興味がなかったら、羞恥心や依存心、恐怖心も生まれないかもしれ
ない。なんて楽なんでしょう。自己満でOK。

ふと、演じていたかもしれない?と思った瞬間、自分に疲れる。演じているわけでもないんだけど、なにか素に戻ろうと、逆になにもしないことを演じるみたいなことをする。気付かぬうちに相手の希望に応えてばかりいる自分を、一旦やめてみる。( かといって、やめたあとにまた元気にリスタートさせてみては、また疲れるんだけど。。。)

「なんでもいいだよ。好きなもの言ってみて!」「どんなことでも助けるから!」「今日はなんでも買ってあげる!」と、言われると、とっても困る。それは自分が今、何を欲しくて何を食べたくて、何をしたいのか、明確に分からないからだ。探そうと、遠くに見える素らしきものに戻そうとしている時に、演じていた膜が私を窒息死させるように張り付く。それならばと、破れるか私が死ぬかの前に、私は張り付くそれと距離をとって仲良くすることにする。こうして、私は保たれている。


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それが恋愛となると、一気に私は窒息死し、膜を破いたところで酸素濃度の薄い外界ではトータルリコールのように眼球が飛び出すんばかり、苦しい。どうやって生きていけばいいのか分からずに、相手に求めていないものをも求めて"みて"しまう。一体なにがしたいのでしょう。

膜は皮膚と同じで大切な役割を果たしている。私が溢れ出ない、私が暴走しない、私を守ってくれている。甲斐甲斐しい親のように、時たまうざくもなるけれど、大方その膜の意見は、5年/10年経っていかに正しいかったのかがわかってくる。でも、それは失敗しているからわかってくるのであって、そのためにも膜はある。

膜をなくそうとすることは、たまねぎの芯を探そうとして剥き続けるようにして私も消えてなくなってしまう。かといって膜をかっちり固めて強めてみても外は重たく、反比例するかのように、心は軽くはなるだろう。もし、その膜を脱ぎ去った時に、心はまたしても重たくのしかかるであろう。

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あなたの膜はどんな感じですか?

あなたの人生の幕は開いてますか?






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